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空気の層を抱く

あらゆる人とものごとと。

それぞれの間に大切だからこそ空気の層を抱きたい。

冷静に丁寧に眺めることのできるように。

冷静に丁寧に眺めることが叶えば、心穏やかに感じることができるでしょう?

心穏やかに感じることができれば、優しく思うことができるでしょう?

優しく思うことができれば、暖かい言葉を伝えられるでしょう?

暖かい言葉を伝えられたら、心の奥がホンワリと暖かくなるでしょう?

そしたら言う人も聞く人もみんな幸せになれるでしょう?

でも、楽しくて、興味があって、大好きになってどんどんひっついて行きたくなる。

もっと触れたくて、もっとたくさん一緒にいたくて、もっとわかりあいたくて、

「もっと、もっと」って、どんどん欲張ってしまう。

そして、わかってもらえない。そばにいると苦しい。って不満が出る。

結果、傷つけあってしまう。

はじめは大好きだったものが、傷つけて傷つけられて。

悲しみを与えて与えられてしまうものとなって、遠ざかることになる。

その寂しさも相まって、引きちぎられるように空気の層を抱く。

血の匂いがしそうなほど、痛々しくも分厚い空気の層を、

手放すことさえできずに力なく抱いている。

あらゆる人とものごとと。

大好きが、大好きのままでいるコツは空気の層を抱いておくこと。

小満

二十四節気 小満(しょうまん)

七十二候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)

立夏から小満へ。

冬から春へ。春から夏へ。

眠りから覚めて、「さぁ!これから」と本格的に活き活きと動き出す季節。

まさにお蚕さんたちは目を覚まして桑の葉を食べ始める。

今日はあるお坊さまと「不動心」について話していて、その難しさを思う。

「不動心」とは、単純に言うと「何にも揺るがない心」のことではあるけど、仏教用語だけにその深さは海のように大きくて深い。

そのあと外に出て歩きながら、山旅に出かけた後だからかこんなことを思っていた。

例えば私が植物の種だとして、鳥に運ばれ地に落ちたら、そこで親から授かったシェルターのように身を守ってくれた殻を破ることができるだろうか?

すぐに傷ついてしまいそうな柔らかい肌で、たちまち折れてしまいそうな小さな手を、まだ見たこともない世の中へと差し出して、本能に突き動かされながら、光と水を求めて生きていくことができるものなんだろうか?

落ちた場所や、環境や、雨風や、誰かの足にさえも脅かされることも恐れることもなくまっすぐ伸ばす手。

「不動心」があるとそれが叶う。

何者かにかき回されることなく、冷静でいられる。

生きることをためらわずに、自分の命を信じてまっすぐに、どんな環境でも手を伸ばす。

少なくとも、小満を迎えた今、柔らかい手を広げて伸びやかに育っている新しい命は、それを成し遂げているのだなと感激した。

可愛い命が、首が座り腰が坐り、つかまり立ちをして歩き始める。

そんな季節なのだと勝手に納得していた。

そして、そんな新しい命に励まされて山を登ったのはとても幸せな時間だった。

2019年5月6日 立夏 蛙初鳴(かわずはじめてなく)

暦の上では夏の始まり。

昨日は新月。

冬眠していた蛙が鳴き始める季節。

そして新元号。

気持ち新たにする機会の目白押しだが、気負えば気負うほど空回るのがわかっているので、「どうやって地に足をつけるか?」 を考えている。

その時点で既に考えすぎな気もする。

どうやっても、考えすぎてしまうきらいがある。

「今」というタイミングに何かしら「仕損じてしまう」ことを恐れている。

今回はそれを手放したい。

潔く。

何かしらを仕損じてしまったら、その時にすればいい。

そう思うべく、今を楽しみたい。

今なくしては、その瞬間を重ねる未来も、結果として今となるための過去も良いと思えるわけがない。

そのことに気づいてしまった。

騙されないぞ!今を楽しんでやるのだ!

「あなたが幸せだと私も幸せ」

平成が終わって令和になった。

二度目の改元を見てきて、船を乗り換えるようだと個人的には感じています。

今日は令和に入って初めての新月。

新月のスタート地点で満月に向け膨らんでいく月にあやかって、令和で膨らませたい思いを考えていたら、そこそこ緩くて(ここ大事)シンプル(これも大事)に続けられそうなものを見つけました。

「1日1笑を提供する」

目の前にいる人を誰でもいいから1日に1度笑顔にしたい。

そしたらきっと、まちがいなく私も笑っているので急に倍になるのです。

あなたが幸せだと私も幸せプロジェクト。

地味にスタートさせることをここに宣言します!

いつも読んでいただきありがとうございます。

もしどこかでお会いして、いつか一緒に笑えたら素敵ですね。

4月25日 七十二候 霜止出苗

霜止出苗(しもやみてなえいずる)

寒さが和らぎ苗が育ち始める頃。
苗は日本では特に稲の苗のこと。

七十二候には略本暦(日本)と宣明暦(中国)の暦があって
それぞれの季節感や、文化などの違いで響くところがちがっていて面白い。

二十四節気は古代中国から渡ってきてそのまま使われている。
5日ごとに移り変わっていく七十二候の名称は日本人に馴染むように何度か改訂されたらしい。

国がちがう、文化がちがう、言葉がちがう。
他にももっと色々ちがっても季節を感じて、それを言葉にして、
暦に記す気持ちは同じで、誰かと分かち合いたい気持ちも同じなんだと思うと
色々話してみたくなる。

もうすぐ田植えの季節だなぁ。
整然と植えられた苗が成長していく様子を見るのが好きだった。

次の候が始まる時は令和に変わって、そのまた次は立夏を迎える。
夏がそこまで来ている。

二十四節気 穀雨 七十二候 葭始生(あしはじめてしょうず)

2019年4月20日
二十四節気 穀雨 七十二候 葭始生(あしはじめてしょうず)

昨日の満月は綺麗だったなぁ。

定年退職してから畑を作り始めて20年近くなる叔母が、
「満月に大根を引く(抜く)と筋が立つ」と言っていた。

月は植物の成長に大きな影響を与えている。

土に落ちたタネに天から雨が降り注ぐ季節に入ろうとしている。

この世界に生きる民族のどれだけたくさんの人が、
次世代を担う植物のタネの一つである穀物を主食としているのだろう?

米、麦、トウモロコシ、モロコシ、ジャガイモ、タロイモ、ヤムイモ、キャッサバ、大豆などの豆類など全部はわからないけれども思い浮かべただけでこんなにたくさんの種類のタネを人は食べている。

米や小麦などは一粒でお腹は満たされなくて、たくさんいただいて今日の糧とし命を繋いでいる。

大地に植えればよりたくさんの命を育み何十倍にも何百倍にもできるかもしれないものをタネのうちに食べる。

大地と恵みの雨に触れることなく人の命をつなぐ。

そして増やし、また翌年に誰かの命をつなぐために大地に、
太陽に、月に、雨に新しい穀物が育まれる。

七十二候 虹始見(にじはじめてあらわる)

春が進んでいくと湿度が増し虹が生まれやすくなる。
急な雨、春雷、空の表情がめまぐるしい。
万華鏡のようだ。

三年ほど前、生まれてはじめて虹の足元を見た。
函館に出張中に移動のため車を運転していて、海から函館山に向けて虹が立ち上がり天に昇る虹の下をくぐった。
フロントガラス越しに見た虹の足元がバックミラー越しに見えた。
確かにくぐったのだ。

残念ながら車を走らせていたたため写真を撮ることは叶わず、今となってはあまりにも夢のような光景で「あれは本当だったのか?」と自分で自分の記憶が疑わしい。「白昼夢だったのかもしれない」とさえ思ってしまうほどだ。

だが、その情景を同じ車に同乗していた人も当たり前に見ていた。
誰も写真を撮ることは叶わなかったけど、はっきりと見たのだ。
彼女は助手席で身を後方に向けてはっきりと振り返ってみていた。
「あれは夢なんかじゃない」
お互いに確かめあえる仲間がいることはありがたい。

その時に一つ深く理解したことがある。

「1人で不確かなものは、何かしらのアクションの最中に共有できればそれは確かな事実となる」
誰かと時間を共にすることの幸せはこんなところにもあった。

写真の虹はこの春のお彼岸頃の虹。

七十二候 鴻雁北 (こうがんかえる)

4月10日 七十二候 鴻雁北 (こうがんかえる)

ツバメが日本にやってきて、入れ替わるかのように北に帰っていく鳥達がいる。

「鴻」は「ひしくい」とよんで大きな種類の雁をさし
「雁」は小さな雁をさした。

情にあついと言われる雁は、色んな物語を持っているようだ。

夫婦の片割れがなくなるとしばらくその別離の場所を離れないとか、
子どもが育つまでの2、3年は丁寧について親鳥が色々教えるとか、
群れの仲間が怪我をすると一緒にその場にとどまって治癒を待つとか、
「雁首を揃える」なんて言葉があるようにとても仲間を大事にする。

青森県津軽地方の言い伝えに「雁風呂」や「雁供養」という話がある。
秋に雁は枝を加えて飛来し、途中波間に浮かべてその上にとまって羽を休めた。
日本にたどり着いた雁は、その枝を浜に残しさらに南へと向かう。
春になり、北へと帰る時、咥えてきた枝を拾って旅に出る。
その時に、浜に残った枝は生きて帰れなかった雁の数。
その枝を集めてお風呂を焚いて戻らない雁の供養をしたというもの。
秋に来て、春に帰る。
そこから季節を感じ、群れで行動する彼らを大きな空に、森の木陰に見つけては
その強さと優しさに共感や尊敬の念を抱いたのかもしれない。

その姿からいろんな物語が生まれ、家紋や「雁が音」や「落雁」など
身近なところにも雁はいる。

お花見

今はどこも桜が満開で、今日の日曜は天気にも恵まれてお花見日和だ。

今年は仕事もあってお花見らしいこともできずにコンビニのコーヒーで、あちこちで広げられる宴席の端っこのベンチに腰をおろし花見の気分を味わった。

賑やかな宴の場から一歩引いて、満開の桜と楽しげな笑い声、身振り手振りで話す人々や走り回る子どもたちを見ていたら、実は「この場所が一番いいのかもしれないなぁ」と思えるほど幸せで平和な光景だった。

絵本の中の1ページのような、蒔絵に切り取られたワンシーンの様なそんな一瞬の光景。

でもそこには、共感できる楽しさやウキウキした春の高揚感があって、それは時代を越えても想いを同じくできる素敵なことなのだと思う。

新しい元号の「令和」が発表されて、元となった万葉集の関連本が売れているらしい。

四月二日の朝日新聞デジタル版に、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏がそのことについて語っていた中に、万葉集でが題材として詠まれた「梅の花」がある歌について、国書か漢籍かなど色々言われている中で、
「後漢の時代の人々に思いを重ね、目の前にある景色を描いたのではないか」
というのがとても素敵だと思った。

それはきっと、国や時代を越えてもなお想いをひとつにする人の豊かな情緒。
今日コーヒーを飲みながら見た景色を共有することも、いつか誰かとわかり合えることがあるかもしれない。

融和することで広がる新しい世界。そんな景色を想像できた。

二十四節気清明(せいめい)七十二候 玄鳥至(つばめきたる)

4月5日 二十四節気清明(せいめい)七十二候 玄鳥至(つばめきたる)

日本の寒い冬を、台湾やフィリピンなどで越すつばめたちが帰ってくる頃。
民家の軒先などで巣を作り、子を育てる。
邪魔をせずに、見守るように段ボールや板などで共存するための知恵を絞り、その一瞬に寄り添う人を毎年見かけては、「今年も大丈夫」と勝手に安堵している。

四季のある国では、冬には死に、春に生まれ変わるとか若返るという風に、
「生命の一巡」に擬え一生という時間の刹那を重ねた。

まさに青春というように春は若々しさの象徴。
清浄で、真新しく、勢いがある。

そこには失敗や成功といった結果を急ぐようなものよりも、ただ内側からあふれ出すようなエネルギーに満ちている。

それだけで綺麗だと思う。
眩しいほどだ。

広い原っぱでワンコのリードを外して、飛び出すように駆け出し広く大きく走り回り大地の懐を謳歌する。
振り返り私の方を確かめながら自分の命を祝福しているかに見え、一緒に祝うような気持ちで私も見守る。

その時のワンコはとても綺麗で、見惚れてしまう。

この春は、そんなワンコを見習いたい。
過去にとらわれず、苦い想いや漠然とした不安も脱ぎ去って進んでいきたい。

なんだかんだあってもこうやって笑っていられる。

大丈夫、大丈夫、大丈夫。