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3月26日七十二候 桜始開(さくらはじめてひらく)

3月26日七十二候 桜始開(さくらはじめてひらく)

この季節になると、標本木の周りをテレビカメラが囲んで、柔らかく淡い小さな花が五輪咲き揃うのを今か今かと待ち望んでいる。
その様子を中継するのは、いつもかなり冷めてしまうが、それほど日本人が桜を待っているということだと素直に受けていいのかどうか。

春の象徴とも言える桜は、「さ」=「魂」、「くら」=「宿す」という意味ですと10年以上前に御霊神社の宮司さんに教わった。

わずかな期間咲き誇り、みるみるうちに散り落ちて地に返って行き、その後には瑞々しい小さな若葉が現れる。

人生を重ねしみじみする人もいれば、ひたすら花見と言う名の飲み会に興じる人もいる。

生きる活力をもらう人もいるが、私はいつもなんだか怖くなってしまう。

特に夜桜。静かな誰もいない所にひっそりとヒラヒラ花びらを散らしながら咲いてる桜なんかは本当に怖くてたまらない。

一緒に散り落ちて、知らない所に引っ張っていかれそうな気さえしてしまう。

その怪しさに色気を感じるんだろうなぁ。
それが桜の魅力なんだろうと私は思っている。

桜は怖いけど好きです。
怖いのに好きって「すごく好き」みたいなことなのかな?

時々カウンセリングでも話す色鉛筆のこと

世の中には色々な事情で社会に出るのが怖くなってしまった人がいる。

仕事で時々お会いする機会があって、ご家族やご本人からお話を聞かせていただく。

お話を伺いながら、時々私はこんな風に感じていることがある。

それぞれの「心のひだ」のようなものがあって、当たり前に個性がある。
それを色鉛筆の色の数や色相に例えてみる。

大体の世の中のコミュニケーションや、伝えようと表すものの色数やその色味のバランスを色鉛筆で例えて12色の色鉛筆と定義する。

そうすると色味のバランスも大体整っていて、ある程度なんでも表現できる。

でもそれぞれの個性によっては24色や48色の人もいる。
あるいは、暖色に偏っている人や寒色に偏ってる人。
または変わった色ばかりの人もいる。

例えば世の中が怖くなってしまった人は、48色を持っていて、色味の表現も繊細だ。
でも、会社や学校などで、「赤を用意して」と言われた時に、

「何に使う赤なのかによって、差し出す赤が違うのではないか?」と迷いが生まれる。

そして「どんな赤を出すのが正解なのかわからない」と、少し反応が遅れたりしてしまう。
とても「いただいた要望」に対して真面目に向き合っている。

「遅い」と言われてしまうと、すっかり気後れしてしまい「どの赤がいいのですか?」と、
こわごわ聞いてしまう。不真面目に見られてしまうこともある。
その上に「いいから黙って普通の赤を出しなさい」と、ついに怒られてしまう。

そうなると、12色以外の自分の色を否定されてしまったかのように傷ついてしまう。

もちろん、その48色を生き生きと活かして、豊かな絵を描き上げてキラキラ生きてる人もたくさんいる。
はじめから偏った色であることを活かして、コアな仲間に囲まれておもしろおかしく生きてる人もいる。

それぞれの特性を活かしていけるといいなと思う。

それぞれの色味が授かっている。
それぞれの居場所は必ずある。
諦めないで、信じて胸を張って大きな声で物怖じせずにいられるように、その48色を誇りに思えるようにと願う。

人は相手が何を考えているかわからないと、そこから小さな不信感が生まれてしまう。
そこから糸がほつれるようにうまくいかなくなってしまう。

そして、怖くなってしまった人を愛する人はひたすらに信じることができれば素敵だな。

もちろんこれはあくまでも例え話なのだけど、特にこの季節に思うことの一つなのです。

そして私自身もそれを知り、勇気を振り絞ることもあるのです。

太陰と太陽の足並み揃う春分

今日は春分。真東から日が昇り正午に丁度真上にのぼる太陽。
昼と夜の長さがほぼ同じで、今日の日の出は6時丁度で日の入りは18時8分。
そし今日は満月。ぴったり満月は10時43分。
春分は祝日法でも「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことが趣旨とされている。

2019年3月21日 二十四節気春分。七十二候 雀始巣(すずめはじめてすくう)

春分と満月の足並みが揃うのは19年ぶりだそう。

月がちょうど満ちたころ、ある方のカウンセリングをしていた。

平成元年生まれの方で、過去の経験をもとに整理し、これからに向けての宣言を高らかに奏上する。その姿を観て、言挙げを聴く。

新しい山を登るのに、荷物を整理し、大切なものを確認し、リュックに詰めていくようなそんなお話でした。

とても眩しい。未来を信じられる瞬間。

平成が終わる年の、今日という特別な日にぴったりのお話だった。

いつもは守秘義務のこともあり、全く表に出すことはしたくないのだけれど、
選手宣誓を聞いたような、大事な出来事だったので少しだけお許しください。

きっと今日お会いした方は若い世代の代表の方。

こんな頼もしい方々が、きっとたくさんいる。

始まるよ。新しい時代。

しなやかに折れない強さ

美しい文章を読んだ。

それは和菓子職人の女性が書いたもので、その景色や光の色まで想像できそうな、そしてその景色がとても美しく輝きだすような文章だった。

四季の移り変わり、新しい草花や山の表情、川の水音や水面に映る光の煌めき。それぞれの色の変化など美しいものやシーンに対しての描写が本当に綺麗で、思わず「ホゥ」っとためいきをついてしまうほどだった。

きっと彼女の作り出すお菓子は綺麗にちがいない。
繊細で優しくて、純度の高い光る生命が宿っているだろう。

彼女の仕事において、この「美しいものに心動かされる力」は財産と言える。

和菓子職人でなくともそういったことが光る職業は多いように思う。
なくても困らないが、あればきっとたくさんの光を共有、共感でき、人々の心を豊かにしうるもの。

その美しさを、言葉や音や形で表すことができたなら、それはたくさんの人の頭の中にプロジェクターでそれぞれの美しい景色を映し出すことができるように思う。

そのプロジェクターもそれぞれの性能にきっと委ねられてしまう。

想像力はたくさんの光と、色を人生にもたらすことができ、幸せな時間を、笑顔を増やすことができる。

きっと「感受性に水をやること」は、そのプロジェクターの性能を上げていくことにつながるのではないか?

その感受性には、強さが必要で、その繊細な心の機微は、暗さの中にある恐怖や寂しさに引き擦られ続けることに支配されてはいけない。

そのたびに打ち克って、光を取り戻す強さを持ちたい。

光させば必ず影は濃くなるのだ。

そして、「もういいや」と思えるような柔らかさや適当さがあれば、「必ずや強く!」
などに縛られることもなく、「しなやかに折れない」くらいで続けられそうだ。

3月16日 七十二候9番目(なむしちょうとなる)

三月十六日 七十二候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

イモムシからサナギになり冬を越えて、美しい羽を持った蝶になる。

地をゆるゆると這い、柔らかい草葉を食んで瑞々しくしなやかな幼虫は、
蛹化し、成虫の形をなぞらえるかのような型に収まり冬を越す。

蛹の間、ただ一つの核の点を残し、その他は液体のようにどろっとしており、そこから新たに完全なる変態に向けてのプログラムを粛々と進めて、あの形を作り上げていくのだ。
あの静寂の中にそんな劇的なことが起こっている。

以前聞いた話で、蛹をよく切れる刃物で切ると核がある部分のみが蝶として羽化するそうだ。
核を半分に切ると、小さな蝶が二匹生まれるらしい。
その実験を目の当たりにしたわけではないので、真偽は定かではないが、その見事さに驚いた。

一番驚いたのは、過去には全く執着なく変容させてしまうそのシステムだ。
いわば幼虫の間は栄養をひたすら吸収し、貯蔵する。そのために生きていると言っても良いくらいの思い切りの良さだ。
さらにその姿へのプログラムは、おそらく核に収まっていて、材料の質量に関係なく作り上げるほどに臨機応変であることだ。

そのことを知ってから、蝶々が神々しく見えてならない。

卒業式

今日は卒業式のお手伝いに。
我が子の卒業はまだです。

中学の三年間の成長は、制服の袖や裾だけでなく、それぞれの表情にも現れている。
小学校の六年間ともまたちがって、大人と子どもの端境で行き来し、自己と他者の狭間でやはり揺れ動く。
それがあらゆる所作や表情に出てくるもんだからなんだかキュンとしてしまったなぁ。

ただ可愛いなぁということ以上に共感や、「ホォ?そうきたか!」なんて思うこともある。
まっすぐに表す。まっすぐに迷い、まっすぐに歪む。

いいぞ!そのまんまで自信を持って行ってくれ!

私も見習ってまっすぐに悩もう。
恐れずにまっすぐに表そう。

みんなおめでとう。幸せであってくれ。

3月11日 桃始笑

3月11日の昨日。
七十二候 桃始笑(ももはじめてさく)
昔は花が咲くことを笑うと表現した。
桃が笑う季節になった。

毎年この日にはどこかに祈りに行く。
はじめは、祈るための場を求めて出向くところからすでに祈りなのだと意気込んでいた。

ある年には仕事か何かで行けなくなり、その時間にいるその場で「祈ること」に専念することにしたのだが、何かしらの心残りがあった。

それから年々祈りを重ねるにつれて、「このようにあるべき」という姿でなくともこの地球上にいることは変わらず、思い祈るその気持ちは変わらないことに気づく。

「これでもいいか」と思えるようになった。
そして、祈りが身近になった。

桃が笑うように、そしてそのことに気づけるように
「あるべき」姿に笑顔を忘れるのでなく、

そこにいて思いを手向けることができることを喜び笑っていようと思う。

どうか、たくさんの自然と、精霊と、
生命あるものと、冥界の方々と、ともに笑っていられますように。

今年はたまたま吉野にいて、丹生津風呂神社さんにご縁をいただきました。

「虹を見る」

子どもの頃に見た景色で鮮明に覚えていることがいくつかある。

それを元に書き始めたものがあって、いろいろ思いをめぐらせているのだけど、驚くほど今まで忘れていたことがあらわれて、ギューギューに詰め込んでいたクローゼットの扉を開けて雪崩れてくる物たちの様だ。

四十年以上も意識に上ることのなかった物たち。

だからと言って、なんとも思っていなかったのでもないみたいで、いちいちチクチクしたりハラハラしたり感情が騒がしくなる。 ホロリと涙がこぼれるものさえある。
そんなにかき乱されるほどのもの、よくもこんなに知らない顔をしてきたものだ。

随分と前に実家は無くなってしまったけれど、実家があった頃に部屋を片付けに帰った時のことを思い出す。過去の遺物。ものは捨ててしまえば済んだりするけれど、これは一体どうしたものだ? 今の(これからの)自分に必要なのか?
だとするなら「整理しなきゃ」と思うのだけど、それこそ卒業アルバムや、そんな時しか読まない文集の様なもの、が出てくるたびに作業が止まる。
どうせなら、全てメモに書き残してしまいたい衝動にかられる。そうなってしまうと、本来の目的をなさなくなってしまう。

上手に棚卸をしたい。

過去の記憶において、一人で思い、「語る」または「記す」ものはあくまでも私の主観でしかなくて、同じシーンに立ち会った兄弟や友人は、それぞれの主観で記憶にとどめていて、その輪郭は異なる。それぞれの角度から同じ立体を見て、その輪郭をなぞるものだから違って当然なのだけれど、そこで感情的になるとそこが楽しめなくなる。
丁寧にそれぞれの輪郭から、その立体の形を思い浮かべたい。

昨日はミモザの日で国際女性デーだった。
昨日のグーグルの検索のトップの動画にいろんな女性の言葉がデザインされていた。
そんな中でもオノ・ヨーコの言葉が
「一人で見る夢は夢でしかない。しかし誰かと共に見る夢は現実だ」
が、今の私にはとても響いて、過去も夢のように朧げでそれが真実かどうかを確かめるには誰かの存在を求めたくなる。

「おなじ虹を見る」
いつもこの感覚をそう呼んでいる。
誰かと共にいることが自分の全てを確かなものとしている様に思えてならない。

共に生きることは、酸素や水の様に必要なんだ。こんな時はそう思える。
近すぎてわからなくなるものなんだと、そう思う。

沈丁花

沈丁花がとてもいい香りを放っていて、その香りに誘われるままに歩く。
香りを感じるたびにキョロキョロと香りの主を探すのだけどなかなか見つからなくて、パッと目があった時なんて運命さえ感じてしまう。
その動きは「不審だ」と思われるのに充分だ。

慌ただしく動き出す朝なので、私のように呑気な人はあんまりいない。
いたとしてもかなりの大先輩方。

お母さんが二人の幼子の手を引いて高層マンションのエントランスから出て来た。子どもたちはそれぞれの背中に保育園のものと思しきリュックを背負い、小さな巾着袋を手に持っている。
兄と思われる少年は大きな犬を恐れて、お母さんの足元に絡みつき、妹らしき少女は空を見上げ小さな手で飛行機を指差す。
お母さんは交通量の多い通りから小道へと左折してくる車と、それをかわすために急に方向転換をする自転車たちに神経を研ぎ澄ませ「しっかり前を向いて歩きなさい!」と、語気を強めて子どもたちの手をグイッと引き寄せる。
彼女の肩には大きなトートバッグと、革製の四角いショルダーバッグを持っている。

彼女が手にしているものは、どれもとても必要だし大切なもので、守りたいものなんだろうというのは想像するにたやすくて、
「何か持ちましょうか?」とか、「お手伝いしましょうか?」とか、とても言えない。
気持ちだけで、祈りだけで「ママ頑張って。今日も行ってらっしゃい。」と見送る。

大切なものに何者かもわからない人が関心を持つことはやはり怖い。
私もそう感じてしまう。それは、いつからなんだろうな。人が信用できない。怖い。と思う何かしらの気配は常に心の何処かに漂っていて、そのシーンごとに濃淡は違ってくる。特に子どもの手を引いている時などは、母性に由来する本能的な危機管理の能力が発動されたりするものだから、怖さはより濃密になりやすい。

そのことを私も知ってるからこそ、「ママ頑張って」って、「一人で抱えすぎないで」って思う。せめてこっそり祈ることは赦されたい。

沈丁花は、その高層マンションの下にたくさん植えられていて、吹き抜けるビル風の中優しく香っていた。その香りが、そのお母さんに届いているといいな。

啓蟄

三月六日 七十二候 蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)
二十四節気では啓蟄。

単純に巣にこもっていた虫たちが、這い出てくるという意味かと思っていたら、
「自ら戸を啓いて出てくる」より能動的なアクションが入っているように思える。
暗いところに刺した日の光に誘われて……とかでなく、自ら光を求めて啓くのだ。

同じ「ひらく」でもそれぞれに意味合いは異なっていて、

・開く→   閉じたものをあける。「閉」の対。新しく始める。隔たりができる。
ほか、広く用いる。
・拓く → 未開の土地を切りひらく。今までなかったことを始める。
・啓く → 人の目をひらいて、わからないことを理解できるようにする。
・披く → 押しひらく。手紙や書物をひらいて読む。
ーー漢字ぺディアより引用ーー

その中でも、「啓」を使っている。
知っていたようで、よく見るとそうでもないな。アップデートする。

それって、「時が来たから動く」 というよりも、
「戸の中で何かしら目論んで、待ち望んでいたのではないか?」 とさえ思う。
すでに春の訪れを土の中から感じていたし、探してもいたと想像する。

「春」という字は、両手で日の光を集めるような象形文字。
「春」には、待ち望むゆえに、自ら手を伸ばすようなイメージがある。

それは虫たちが日の光に触発されることなく、内側から沸き起こって、ことの準備を始めるかのようだ。

内側から沸き起こる最初のの気持ちを大事にしたいな。

「意味」とか「意義」とかの前の発露を愛でていきたい。