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「2021年はどんな年になるとおもいますか?」

本当に色々あった2020年も残すところ10日を切りました。

ここ数日「風の時代に入るそうですね?」
とか、「これからはどうなっていくんでしょう?」
とか、「2021年はどんな年になると思いますか?」
なんて聞かれることが増えて来たように思います。

占星術では、今日22日に木星と土星が水瓶座で会うことで起こる”グレートコンジャクション”から”風の時代”が始まると言われていますね。
 
 私は占星術は専門外なので、あまり詳しくありません。
でも、占星術は好きです。大きな星空から様々なことを読み解くなんてすごい素敵ですよね。

そして今日から始まるとされる”風の時代”とは?
「風とは一体なんだろう?」と思いを巡らせてみました。


日本の神様で言うと風の神様の代表格はスサノオノミコトになります。

イザナギノミコトの目から生まれた、アマテラスオオミカミとツクヨミノミコトの弟分である
スサノオノミコトは鼻から生まれました。

アマテラスさまとツクヨミさまは目で見える太陽と月を司る神様。
太陽と月は決まったように動くので「25年の私の誕生日には月はここにある」とか決まった動きしかしないんです。
むしろだからこそ占星術や暦が生まれたんですよね。

ですが鼻から生まれたスサノオノミコトは息吹なので気流や海流を統べました。
とても読めない動きなんです。明日の風さえも完璧な動きはなかなか読めません。
かなり当たるようになった現代の天気予報でさえ、完璧に当てることはできません。

まさに今、未曾有の事態として世間を困らせているコロナウィルスは、飛沫感染します。
人の口や鼻から発する呼吸、呼気はまさに息吹。
そして人の流れ、はたまたその澱む場所など、水や気の流れと同じように読めません。
なのでスサノオノミコトは疫病さえも支配するとされました。

そして、流行などから経済の流れなども水や気の流れに擬えて表されますよね。

そういった動きの読めないものをしっかり読み解く術を学び表すものとして風水があります。
スサノオさまは中国に渡ると牛頭天王さまとお名前を変えて祀られています。風水の神様です。

つまり風は自由気まま。そして型に嵌まらないんです。

自由気ままとは、開放的なようでいてそうではありません。
地図を片手に知らない場所に放り出されるようなところがあります。
行先や、どんなところに立ち寄りたいかをもとに自分でルートを決めなければなりません。
なので、しっかりと自分自身の価値観やそれに基づいた判断能力が問われることにもなります。

そして目に見えない強い力。強い風も、複雑な海流も、流されるもの靡くものがあって初めてその強さを知りますが、それがなければなかなか見ることが難しいです。

今までが地の時代と言われて、物質的なこと、目に見えることの力が大きく働く時代から、目に見えないものへと移行するのでしばらくは個々に窮屈さを感じたり、追風を感じたりするかもしれません。

個人個人の価値観の違いから、その時の感じ方が異なって来るので一定の距離を置いて人と関わること。
その違いをも愛せるだけの心の余裕を持てるよう、自分の心のなわばりを充実させていけると良いかもしれません。

新たな価値観が生まれて、今までなかったものができて来ます。
そして今までの当たり前が、そうじゃなくなったりします。

風を帆にいっぱい受けてどんどん進んでいくのか、怖くて地に這いつくばって耐え忍ぶのか?
それも人それぞれです。

私は新しいことに挑戦したいなぁ。

色々と風通しの良い時代になって欲しいです。

2021年、私は大舞台の幕が開くような、入学式の前の日のようなそんなワクワク感があります。
楽しみだなぁ。

素敵な一年になりますように。

この一年、冥界へと旅立たれた方々の彼方の世界での幸福と発展を
心からお祈りします。

そして、この世界に生きる命の未来が力強く美しいものであることを祈ります。


宝石箱の宝石たちは何を思うのか

街はとても視界が狭くて窮屈で近視眼的になりがちだ。
あのきれいなビルで働く人は人に窮屈な思いをしていて
大きなカッコいいショーウィンドウのお店で働く人は
そのシステムに窮屈な思いをしていた。

月の観測は自転車で十五分走った先の公園でしかできなくて
お天気雨のどんなにきれいな太陽の下でも虹は見えない。


それでも、少し遠く離れてここを見ると、

もしかしたら私たちは虹の下にいるかもしれなくて、

少し距離を取ってみると、その窮屈な人やシステムは
ぼんやりした優しさに包まれていたのかも知れない。

街が明るすぎて星が見えない

月でさえもそう明るく感じない

距離を取ってこの街を見れば、夜景が美しい
宝石箱に見えるのだ。

自死の報道とそれぞれの命と

昨年は例年よりも多くの方から自死のことについてお話を伺うことがありました。

そのことについて考えることも学ぶこともたくさんあって、書きたいと思うことも伝えたいと思うことも、色々あったけれどここに表すことはできませんでした。

自分自身も当たり前に消化や整理ができるものでもありませんでした。
そして、知れば知るほどに簡単に文字や言葉にしてしまうことが怖いと感じてしまうくらい繊細な事柄でした。

「この世から消えてしまいたい」や、そう考えてしまうなんて言う相談を受けることもあったり、
ご遺族の方からお話を伺って、彼岸に渡られてからの様子を窺い知ることもあったりで、
当たり前に正解とか答えなんてないし、これからも私がこの世を去るまで考え続け、
見つめ続けていくことなんだと思っています。

ですが、今回こうやってブログに書こうと思ったのはまさに今必要だと思うからです。

先週末から自死に纏わる報道がテレビでもネットニュースでも流れてきてます。
きっと人と会って世間話の中にも出てきたりするでしょう。

この報道に関して、WHOが「メディア関係者の手引」としていくつかのガイドラインが取り決められているのをご存知ですか?厚生労働省のサイトからもみられます。

「自殺予防 メディア関係者のための手引きーメディア関係者のためのクイック・リファレンスー」

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000133759.html

その中にも、「報道を目立つ所に掲載したり、過剰に、そして繰り返し報道しない。」や、
      「既遂や未遂に用いられた手段を詳しく伝えない。」や
      「メディア関係者自身も、関する話題から影響を受けることを知る。」
と言う項目があります。

私たちは、知らず知らずにそういった情報から影響を受けています。

大切な方を、同じように亡くされた経験のある方は、また繰り返して息の詰まるような悲しい記憶を
呼び戻してしまうかもしれないし、必要以上に感情移入してしまうかもしれない。

一度でも「消えたい」と感じたことのある人はそう少なくないはずで、ふとした拍子に具体的なイメージとして、つながってしまうかもしれない。

それも、知らず知らずのうちに・・・。

その事実を知っておいてください。

人の心は、自覚しているより繊細です。
知らず知らずに引きずられて、支配されてしまうとかあってほしくないのです。

ですが、実際に起こりうることです。

だからこそ、流されないで、「ハッ」我を取り戻す瞬間を持っていただきたいのです。

人は、「好き好き大嫌い」とか
「結婚したい」と言いながら、したらしたで「離婚したい」とか
「就職したい」と働き出せば「やめたい」とか真逆のものに惹かれるような
弱くも可愛いところがあります。

そして、背負い過ぎ、頑張り過ぎて、壊れてしまうような、強いようで脆いところも、
誰かのために優しいようで、自分さえも大事にできないような愚かなところもあります。

だからこそ、今の自分を大事にしてください。

焦っていたら、率先して無駄なことをしてください。
わがままになってください。

ハッとするような夕日や、たんぽぽの綿毛や、普段は気にも留めないようなものを探しに散歩に出かけましょう。

誰かを誘って一緒に出かけられたらそれはそれでいい時間になるでしょう。

もし、誰もいなければコメントでもメッセージでもください。

私は無駄を愛する達人なんです。
一緒に無駄話しましょう。












もしもしと尋ねること

まだ幼い頃。

遠くの祖父の家に預けられていることがあったので、

祖父との思い出がいまだにポロポロとこぼれ落ちる。

「おじいちゃん明日はお天気かなぁ?」と祖父に尋ねたある日。

「お空に『もしもし』してごらん。こたえてくれるけに。(こたえてくれるから)。」

と、方言まじりでこたえてくれた。

空に天気を尋ねる方法を祖父は、直接的ではなく、空を介して教えてくれた。

「もしもし」と問いかけることを、そして何も語らないものから感じ取るその心を教わったその日のことを。

台風の後の、澄んだ空を見ながら思い出した。

週末ふと思ったこと

電車の車窓から振り返る景色は、
進行方向に向かう景色より早く流れる様に感じる。

同じ速度のはずなのに不思議なことだ。

それはあっという間に過ぎ去ってしまう時を振り返る様だ。

そして過去はそのリアルタイムよりも輝いて見える様に思う。

旅先でなんとなく買ったものが、家に帰った瞬間に輝き出すのに似てる。

時が経ってもなお色褪せない過去というのは、
意外と壁にぶち当たったりした時のことだったりする。

そう思うと、「いいんじゃん、不安なんて先取りしなくてもさぁ」って思う。
予測できることなんてつまらない。

理想通りの未来の方に今を当てはめて生きようとすると
窮屈になってしまうのが勿体無い。

そんなことをふと思うこの週末だった。

納骨

昨年亡くなった愛犬の納骨をすべく写経をしている。

出来るだけ真っ直ぐな気持ちで、と懸命に取り組もうとするも

どうしても雑念が入る。

はぐらかすように、あえて気をそらせるように

歌詞のうるさい音楽を聴いてみたりしたくなる。

我が家にはもう一頭愛犬がいて、我が家に来て10ヶ月になる。

その子はその子でとても愛しい。

寂しさは紛れても、代わりになんかならない。

代わりになるなんてことあるはずもないんだな。

今ここに来て当たり前のこととして直面している。

寂しくてなんとなくぼやかして、

悲しくてなんとなくごまかしてきた気持ち。

写経してよかった。

理屈でなく身にしみてわかる。

寂しさも愛しさも。

そんな寂しさから浮き上がる様な愛する気持ちを孕んだ写経を

そのままに、小さく白くなってしまった愛しい亡骸とともに納めてこよう。

94歳

最年長の友人は、今年の2月に転倒し大腿骨を骨折。
一ヶ月入院したのち、そのまま施設にいた。
現在もリハビリは続けている。

本人は
「ご飯もしてくれはるし、なんもせんでええ。
なんでもまぁまぁ美味しいし、せやけどなぁ。
あんなとこおったらボケてまう。
こんなばあさんボケたら難儀やでぇ〜。
えらい迷惑な話や。だから逃げてきたってん」

といって、一人暮らしの家に舞い戻ってきた。

透明のガラスに豊かな水を湛えた雨雲を閉じ込めたような
美しいグレーの目のその奥には、まだまだエネルギッシュな光が見えて、

「確かにそれは酷なことやなぁ」と思った。

「息子にえらい怒られた。一人でおったら心配やっていうてな。
せやけど私、そんなとこおったら辛いねん。
どんどんボーッとしてしまう。そない言うたってん。」

もうすぐ70歳になろうとする息子さんの気持ちもわかる。

思って思われて、強いように見えても心配で。

側から見るとそのどちらもが愛しくて、でも切実な思いもわかるだけに
なんとも言えなくなってしまう。

そうやって少しずつ何かしらのきっかけがあって、歩み寄って、
一つの交わる点を生み出せる時がくればいいな。

いつか誰しもが迎えるその時も、優しい時間でありますように。

そう願ってやまない

今年の八月六日

プール登校の小学生男の子。

まだ蒸し暑い夕暮れに、
制服で友人と離れ際

「またね」「元気でね」

と、繰り返し振り返る。

角を曲がって姿が見えなくなるまで、

「またね、元気でね」

見えなくなった瞬間に
誰に言うでもなく

「さみし〜」

と、走り出した。

昨日一番胸キュンな出来事。

今日八月六日。
黙祷を捧げながら、こんな胸キュンを絶対守りたいと思いを新たにしています。

ささやかな成長や、笑顔を見て「幸せ」だと感じられるような、
感激できるような連鎖をずっとずっと守りたい。

きっと昨日の少年も、いつかの未来でそんな風なことを思う日が来るはずなんだ。

私の命がこの世を終えて、その先までもずっとずっと続いていきますように。

それが平和と言うのだろうと思うのです。

夢の話

最近面白い夢を見ます。

昨夜の夢のお話。

薄暗い建物の中から明るい緑の茂った外を静かに眺めている。

土間のようなところに椅子を置いて私は座っている。

首にはタオルをかけていて、木製のテーブルの上には冷えた麦茶の入ったグラスが置いてあり、左の肘をその手前に置いている。

でも私の視点は、明るい緑の中にある。

現実には知らない建物の中で、記憶にもない場所。

なんとなく南の方なのかな?というような植物の気配。

そしてドアの軋む「ギギギー」という音が響く。

「バタン」ということも、「ガチャリ」ということもなく、聞こえてくるのは

「ギギギー」だけ。

寝ながら私は「クレ556を挿してくれ〜」と思いながら、どこにあるか思いを巡らせる。

その所在は現実的な今住む家で、ここには無いことに気づく。

そこで目を覚ました。

まだ暗い時間。

寝付けず、本を読みながら程なく眠りに落ちたのだが、まだ軋む音がする。

そして、また目覚め、また本を読みながら眠りに落ちた。

そうやって朝を迎え、「クレ556」を買いに行かねばと思っていることに驚いた。

木のテーブルも、その土間のひんやりとした風も、ドアさえも夢の中で視野には入ることはなかった。それなのに形や匂いをイメージすることができる。

その姿も見せずに、軋む音だけでこんなにも脳内を支配されていることが、すでに恐怖でしかない。笑

脳って面白い。

内なる子ども

いろんな人の心の中には子どもが住んでいて、それはきっとその人の小さな頃から変わらない姿なのだろうと思う事がある。

80歳を超えたお年寄りでも、50代の社長さんでも、夢見る少年のような眼差しをするし、時には意地を張ってはいるものの、寂しさを背中に宿しているときもある。

もちろん女性でも同じように、そこかしこに垣間見る事がある。

自分に余裕があれば、抱きしめたり、手を取ったりしたくなる時もあるし、(現実にはしないけども)余裕がなければ、「勘弁してよ」なんて思う事もある。(言わないけれども)

そんな風に揺らぐ私こそが子どもだなぁと今日は思った。

どんな人の内なる子どもも、私自身の内なる子どもも愛でることのできる

子ども宿した大人になりたいな。

子どもの方がきっとまっすぐに抱きしめる事ができそうだ。