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あふるるはこぼるる

今日から3月。

昨日の雨に洗われて、今日はキラキラの空。
太陽がまぶしい。
なのに不思議と心は下降線なので、今日はシーツを洗います。
それからあらゆる移動は歩くことにします。

「心が落ち着かないときは体を動かす。手を動かす。」
そのことを教わったのは、佐藤初女先生だった。
それは10年くらい前。初女先生が全国を講演されて回っていたときのこと。
お会いして直接教えを乞うた時、お答えいただいた言葉がそうだった。

昨日読み終えた村上春樹先生の「走ることについて語るときに僕の語ること」
を読んで、より深く腑に落ちた様に思う。
フィジカルとメンタルのバランスをとるには純粋にフィジカルと向き合う必要性がある。

年齢を重ねていくにつれ、様々な課題は何周も巡り、より深く落とし込んでいく。

昔読んだ本を読み返して感じ方が違う様に。
いろんな事柄においても違ってくる。

時々同じ点をめぐり、思いを新たに上書きしていく様な感覚が、DNAの分子模型の様な二重螺旋と重なる。輪廻もそうなんじゃないか?答えはないが問うてみる。

欲張って、いっぱいいっぱいにまで注いだコップの水は、
こぼさない様にと扱いづらいものとなる。

「あふるるは、こぼるる」

欲張って、あれもこれもと妥協できない状況が、自分にあらゆる制限をかけてしまう様に
物理的にも現象として起こることは、目に見えないところにも起こりうる。

それも二重螺旋っぽく感じる。

長い年月をかけて二重螺旋のイメージを面白がっていきたい。
答えはこのずっと先。いつか、この世から去ったときにでもわかるのかも知れないな。

スピリチュアルカウンセラーってなに?

スピリチュアルカウンセラーってわかりやすくザックリ言ってしまっているけども、
簡単に言うと「人の話を聞く仕事」です。

悩みや今後の展開について頭を整理するためとか、
その時その時によってもちろん内容は異なるのだが、
人生の断片を垣間見るような仕事です。

スピリチュアルがひっつくのは、そこに寄り添う目に見えない存在の思いを伝えるから。
かつては、
「ラジオの様に受信アンテナとスピーカーの様に思ってください」と言っていたけれど
今やもう「糸電話」とか、なんだったら「ストロー」の様にシンプルです。
目に見えないこと全般を雑多に盛り込んで、平たくわかりやすくお伝えするとそうなってしまう。

いろんな方のお話を伺っていると、
どんな人も知れば知るほど「なるほど」と思えてきて
「それでそんな風にこじれたのか。」とか、「怖くって突き放しちゃったんだね」とか
様々な発見をするのだけれど、大体は自分にも当てはまるわけで
お話しする方と一緒にヒリヒリしてます。

そうです。見えないものの中には、それぞれの心のあり様も入っています。
もちろんご自身の心も含めます。
同じ様に、住む世界を分けて、彼岸に旅立たれた方の思いもあるのです。

素直にそれぞれの在りようを受け止められるのか否か?
素直さは宝で、その目で見ないと、本当のところは見極められない。

特に大事な人と揉めそうだとか、嫌われたらどうしようとか、
シンプルに嫌だな、怖いなと思うことの前では難しいようです。

そしてそれは、損ないたくないことがあれば、その分どんどん余裕が無くなっていくわけで
先回りしてどうにかしようと、ねじれた言動や行動をしてしまう。

私も含めて。(これに気づかせるためにこの仕事してるんだと思うくらいに。)

損ないたくないことなんて、個人個人で持ち合わせてるものが違うわけで、
意地とか、見栄とか、優等生に見られたいとか、できる人でありたいとか、
自分自身に対しても知らずに様々な条件を出しているわけで、
その中で苦しんで、素直に表現できず、気づけば拗れていることが多い。
奇を衒って自分がわからなくなるとかもある。
そのボリュームもそれぞれに違う。

いずれも自分より「誰か」の意識を気にかけていることが強い。
「誰か」にとても関心が高いのではないかと思う。

もちろん、そうでない人もいる。

いろんな人がこの世界にはいて、どんな人も人によっていろんな感情が湧き上がり、
そんな自分を知るんだなと思う。そして、愛し愛されたいのがどこかにある。

そんな中の、見えない部分も全部含めてスピリチュアル。
あなた自身の魂(霊性)も、潜在意識、健在意識、含め見えないところはスピリチュアルなんです。

人は面白い。そして愛しい。
話し込んでわかってくるとそう思える。
自分自身も含めて。

でも、人がこの世で一番怖い。
幽霊よりも怖い。
自分自身も含めて(笑)。

七十二候今年5番目

別のところで今年に入ってから七十二候について書いていたが面白いのでここにも書きます。
季節の移り変わりを美しい言葉や感性で暦として表されてるのが心地よくて
今年一年追いかけてゆるっと書いていこうと思います。
今回5番目だから、あと67回。

昨日、二月二十四日から
七十二候では霞始[雲逮]本当はこれで一文字になる→(かすみはじめてたなびく)

春霞のため、遠くの山や景色がほのかに浮かび上がるかの様に見える。
冬のキンと澄み渡った、張り詰めたような空気から、少しずつ緩みぼやけていく。

花粉かもしれないし、pm2.5かもしれないけど、
澄み渡る美しさとはまた違った美しさが現れる。
何れにせよ、冬の間大地に縛られていたものが、天に向けて浮遊するのだ。

少し緩むって、今この時節に大切な様に思う。
冬から春へとやっと身体が寒さに慣れた頃に移り変わっていく
「熱」に向けてのベクトル。

振り子でいうと揺り戻す時。その折り返す瞬間は両方へ引かれる。
その間は一旦停止するに近い。

ブランコでいうと上がり切ってから下がるまでの一瞬。
一瞬内臓が浮き上がったみたいにフワッとなるその瞬間。

変に緊張して力を入れてしまうと、気持ち悪く酔ってしまいそうなあれです。
ぽかんと抜けた時間や、日向を探して何もせずに日向ぼっこをする時間を作りたい。

たなびくは「棚引く」と書くけれど、
「雲に愛」+「く」でも「たなびく」。
「雲に逮」+「く」でも「たなびく」。いずれも今の常用漢字にはない。

「たな」は「ひく」にかかる接頭辞であることから「ひく」という言葉。
緩やかに引かれる様な、ついつい追いかけてしまう様なニュアンスを孕む。
それを雲編に愛とか、
逮(逮捕の逮ですが、意味合いは「およぶ」や「とどく」「おいつく」。

「なびく、靡く」は「風になびく」」みたいに何かによって流される。
鯉のぼりは「なびく」。校旗も「なびく」

「たなびく」はついつい引かれてしまった様にふわりとした意思が宿る。
雲が愛によってついつい引かれてしまったのか?
雲が逮で表す様に追いたい。届きたい思いがあったのか?

なかなか素敵な言葉だと思う。

準備の時間

ここ数日曇天が続いていて太陽が恋しい。

気持ちが沈んでいるとは感じていなかったけど、
気持ちの浮き立つものを探していると言うことは、ちょっと重くなってた。

近所の沈丁花の花が咲くのを待ち侘びつつ、蕾が膨らみ香りが増すことが嬉しい。

三寒四温で寒暖の差が体調にさし障ることに気を使う人も多いし、
そのことを労う事が挨拶の様にもなっている。
気を回し、優しい言葉が挨拶になるのは素敵だとも思うけど、
形式になってしまうことに寂しさも覚える。

三寒四温もとても必要だと感じる。
いきなり暖かい日ばかりが続いたとしたら、きっともっと体調は崩れてしまう。

生まれるまでから生まれてしばらくの間や、
一人で冥界に旅立とうとするまでの時間やなんかの
「これから」に向けて誰かが寄り添う時間がある。
もちろんそれは当人にとって不可欠な時間であることは間違いない。
でもそれは、寄り添う側の「誰か」にとっての準備期間としても必要だと思う。

直面してる時は「苦」でしかなく、過ぎ去ってみると安堵がやってきて、
さらに時間が経過すると「懐かしさ」や「優しさ」を纏う時間になる。

自然の摂理は本当にいつも良くできていて、愛しかないなと思うことも多い。
でも勝手なもので、目先のことに溺れてすぐに忘れてしまう。

その過程の時間は必要なんだろうな。
それでもやっぱり太陽は恋しいな。

「スピリチュアル」っていうよりも、「目に見えないところ」くらいがしっくりきます。

今までずっと、かなりかなりこのブログほったらかしていたのですが、

なぜそうだったのかがわかったような気がしてるのです。
と、いってもとても私の文章力ではなかなかすべて説明できないので、申し訳ないです。

そして、もし、もしも、どなたか更新されるのを待ち望んでくださるような
稀有な方がいらっしゃったとしたら、大変申し訳ございませんでした。

それでもなお、誤解を恐れずにザックリ説明(言い訳)すると、あらゆるステレオタイプの
「スピリチュアル」というものに疲れていたのかもしれません。

言葉って怖いもので、ふわりとある感覚を言葉にした時点で固まってしまう。
それも共通認識のパーセンテージが、どれほど共鳴しあっているのかさえ覚束ないままに進んでいってしまう。なんとも怖いもののように感じながら、かなり雑に扱ってるところがある。
なぜ雑になるかって言うと、その言葉の意味より心意気から生まれる
「間」みたいな時間の流れがそこに一緒にあるから。

そんな心意気としても、わかりやすい「看板」となる肩書き。
その中でも、「スピリチュアル」は、ひときわふわりとしているように思えて、
違和感がぬぐいきれませんでした。

しかも文字に起こすと本当にフィックスされてしまって、そのまま留まり続けることになる。
そんな風に思い始めると、ただただ億劫になってしまったんです。

そんな「モヤっとした面倒臭い物」を説明する必要なんてないのでは?と思って、
なんとなく放置してしまいました。きっとつまらないことこの上ないと思ったんです。
しかもその時点では心さえも決まっていない、ただのモヤっとでしかない。(笑)

それは、すべて私の中で起こっていること。本当に何もかも。そのことに気づいてしまいました。
気づくと、どうでもよくなってしまって(笑)
あっさりとそんな一切合切を手放してしまうことにしました。

なぜ、そこまで潔く何年もモヤっとしてた物を切り替えることができたのか?

それは、ある意味「筋トレ」のようにとあるサイト(内緒)でエッセイを今年に入ってから執筆していて、かなり、整理がつきました。

書くって大事。続けるって大事。

この歳で改めて思いを新たにしております。

恥ずかしいけれども、今日書いたそのエッセイが下記のものになります。

ここから

人は時間の流れに沿ってしなやかに変化していく。
いろんなものが変化していく中で、変わらないものもあって、
それが「らしさ」なのかもしれない。

目に見えて変わることでさえ、近くにいると目が慣れてしまってわからないことがある。
目に見えない性格的なものや思考などもわかりづらい。

自分自身ではどうだろう?
そもそも自分が「こんな人です」と言う内容が気分で変わってしまうこともある。
その時の状況やどんな人たちの輪の中にいるのかでも違う。

人の目に見えない部分って液体のよう。
周りの色や濃度に影響を受ける。それに呼応して自分の色さえもも自ずと変わる。
筆洗の中の真新しい透明な水に、色のついた筆を入れて水に色がつく。
その始めの色でさえも何かしらの色の集合体で、引いてみるとそう見えているのではないか?
さらに新しい色を一滴落とすところを想像する。
筆洗の中に新しいムーブメントが起こり混じり合って、
また少しニュアンスの違った色が生まれる。
いろんな色調のドットの集合体のように見える。

そんな中で、こうやって書くことで私はいつも「変わらずに持ってたんだ」と思えるような
あらゆる色調のドットを自分の中にも発見するように思う。
それらのドットの色を鮮やかに変えながらしなやかに進化していきたい。


ここまで

多分、このドットの色みたいなのをみなさんのお好きなオーラの色と表されてるのかなぁと思います。
感情で色が変わる。
でもその色が時間や質量なんかで鑑みて、相対的な「あなたの色」が定まるんですよね。

その目に見えない液体のようなところ。そこについてカウンセリングするのが私の仕事だと思います。

何者かと混ざる前のあなたを拾い集めて、くぐもったり、偽った色を帯びていないか?
やはり同じように目に見えない液体のような方々のお力を借りながら、一緒に前を向いていく。
そんなお仕事ができればと思っています。

それは、言葉でも文章でも。
それが私のやりたい仕事です。

長々とお付き合いいただいてありがとうございました。

もし良ければコメントください。よろしくお願いいたします。

なんと四年ぶりのブログなんですが・・・

最近、カウンセリングのお問い合わせを頂いて、お返事を差し上げるとブロックされていてお返事が返せないことがちょっとだけですが続いています。
大体はお知らせいただいている電話番号にお電話させていただいてつながるのですが、今日の15時53分にメッセージを下さった方でイニシャルがM.Tさま電話番号も違います〜。
渋いおじさまの声がしたよ〜。女性のはずなのに〜。もしこのブログご覧になられたらもう一度メッセージください。よろしくお願いいたします。

090で始まる電話番号が変わります!

090で始まる電話番号を知って頂いているみなさま。
この10月1日から080で始まる番号に変更となります。
わかる限りの皆様にはメールなどでお知らせさせていただきましたが、
行き届かなかったみなさま。あれ?つながらないよ?
と思わせてしまった皆様。
お手数をおかけして申し訳ございませんが、
コンタクトよりご連絡頂けますとありがたいです。

よろしくお願いいたします。

念願の街中遍路に♬

先日。念願の街中遍路にでかけました。
とても行きたかったコース。
吹田の垂水神社さんから難波宮のお水を届けるコース。

孝徳天皇(ご在位645年~654年)の御代、
この地の領主である阿利真公(ありまのきみ…ご祭神である豊城入彦命の子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って垂水の水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公」(たるみのきみ)の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録』の右京皇別の項に記載されております。
〜垂水神社さんHPご由緒より〜

なんとここの神社さんで湧き出るお水を難波長柄豊崎宮まで樋を使って送ったというのだ。しかもHPには明治時代まで残っていた懸け樋の後の写真まである。

そして私は、その水を吹田豊津の垂水神社さんから難波宮まで歩いて届けたいと思った。

調べてみると、前期難波宮、後期難波宮とあり、難波長柄豊崎宮は前期のようで、しかも長柄豊崎とありながら谷町四丁目の難波宮のあたりが前期も後期もお宮が有ったとされる場所なのだ。
豊崎にある豊崎宮(豊崎神社)ではないらしい。

吹田の垂水神社さんからは豊崎宮までは7キロ弱くらい。
難波宮までは12キロくらい。
たしかにどちらもほぼ真っ直ぐだ。
何となく知らんぷりできずに、垂水神社でお水をいただいて、豊崎宮でこの樹!と思う樹にお水を託す。そして、綱敷天神社、太融寺、堀川恵比寿、宝珠院さん、松之木神社、難波宮へと水を分けて数珠つなぎに参拝して回る。

静かな森に守られる垂水神社さんからどんどん歩いて、神崎川を越える。新大阪の人工的な大きな流れを越え、はるか生駒を見渡せる淀川を越える。
ますます人工的で、ついさっきまで広く感じた空が狭くなる。
そんな中にも自然は食らいつき、よりそっている。
アスファルトの隙間に。ビルの間の空に。
人の生きる場所が長い紙に描かれた絵の様に客観的に見える。
こんなのは初めてだ。
寺社仏閣にある大きな樹。囲まれた塀の中で伸びやかに生きている。
大川を越える。もうすぐだ。大阪城公園で整然とした樹々に出会う。
中央大通りを越えていよいよ難波宮。
大きな空がひろがる。
いにしえの宮城はとても大らかに待っていてくれた。
すべてのお水を大地に注ぐ。

やってみてよかった。
うまくいえないけれど、もっと樹が、空が、水が、
人が愛しくなった。
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大好きな空海さま。

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空海さまのお言葉をお借りして、こんなお話会を開催しています。
先週の6日の金曜日も満月ではなかったけれど大盛り上がり!!
悩んでること、そして乗り越え気付いたこと。それぞれにシェアをして、
恋について。結婚について。仕事について。仕事の上での人間関係について。
1200年前の空海さまの言葉は一粒の石となり、波紋を広く広く広げていきました。
分かち合えること。話すこと。聞くこと。そこから自分を知ることができたり、ヒントを見つけられたり。
心の女子会の様な(笑)楽しい時間でした♬
結局大幅に時間は延びて、たくさん話し込んで、気付けば終電ヤバい!!と慌てて解散(笑)
今週の13日金曜日の満月にも、そしてまたやりたい〜!のお言葉にお応えしてやって行こうと思います♬
ご興味のある方はぜひ!

魂をこめると、ものだって生きるのです。

いつもきれいな音に癒されるカリンバちゃん。
私の手元に来てからもう6、7年になる。
このカリンバの作者の方が近くに来られてるということで
メンテナンスをしてもらおうとイソイソともって出かけた。

そして彼がメンテナンスの為に手にしたときドキッとした。

今までも「作品を作る人の手」と「その作品に触れる手」を
見て来た私はかなりの手フェチで、
「作者の手とその作品」はとてもしっくりくることを
よ〜く知ってるつもりだった。

カリンバは手に包むように持って演奏するものだし、
だれにでも簡単に音が出せる親しみやすい楽器なので
たくさんの人が私のカリンバを手にする姿を目にして来て
今回は衝撃を受けて思わず写真を撮らせてもらう程だった(笑)

優しくそっと触れる人が多いなかで
丁寧に強くそしてやさしく調整作業は愛に満ちていて
(私にはそう感じられてガン見してました(笑))
長い時間を経ても、作者とカリンバの信頼関係は変わっていないんだと
少しカリンバちゃんに嫉妬してしまうほどだった(笑)

魂をこめて作られるものはちゃんと生まれて
ちゃんと生きているのだよね。
お父さんと息子の様なそんな関係だった。

カリンバちゃんはカリンバくんだった(笑)

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