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魂は自らのアイデアを実現することの喜びを知っている。その3

魂が喜んだり、面白いと感じるときはどんな時だと思いますか?
またどんな時が喜んでるな!楽しんでるな!と実感しますか?

私はとってもわかりやすく言えば、真っ白い新雪に足を踏み入れる時や、冷たい空気を吸い込んで肺の中で温められていく感じや、初めて聴いた音楽やダンスや映画を観ていきなり鳥肌が立ったり、涙がこぼれたり、波打ち際で服を着たまま冷たい海水に足を浸けるかつけないかでドキドキしたり、大きな虹を見たり、山の中でたくさんの生命の息吹を感じたり、そこにさす陽光の遍く照らす温かさに触れる時、あー喜んでるなって感じます。
書ききれないくらいきっと探せばありそうだけど、今は思いつかないなぁ。
ぜひ、探してみてください。良かったらコメントで教えてください。
なかなかみんな書き込んでくれないけど 笑

もちろん仕事の上でも、カウンセリングにお越しいただいた方から幸せな報告をいただいたり、以前お会いした時よりも明るい表情で再会できた時もフワッと軽くなったような、ほっこり温まるようなそんな幸せを感じます。

そういえば私の母なんかは昔、仕事であらゆる数字がピタッと整った時にとてもスッキリする!なんて言ってたことがありました。
仕事の上でもそんな喜びはありますね〜。

小さい子どもが水溜りでバシャバシャするような、初めて傘をさして歩くようなそんな時もきっとそうだったんだなって思います。
いつしか慣れてしまって、当たり前になってしまってそんなことは思わなくなったりするのですが、その先に新しいまた何かを見つけて、理屈より少しだけ先にやってくる、ワクワクするような、心地良いような、ちょっと嬉しいようなそんな感覚。
先にドキドキや鳥肌のように身体が反応するような。

それって感動っていうもの中でも透明度の高いものなのではないかしら?と思っています。

「新しい何か」は、経験値が高くなって馴染みの日常の中では、忙しさも手伝ってなかなか出会いにくくなってしまうのです。

それは、日常で使う筋肉とか肉体的なことに似ているなと、地味にリハビリのように丁寧な指導をトレーナーさんにしていただきながら、体を動かすことを週一でやり始めて6年目の私は感じています。

使わない筋肉はいつしか忘れてしまって、少し無器用になって、感覚を取り戻すのに時間を要したり、すごくよく使う筋肉はどんどん進化して特別なものになったりするみたいに。

物を作る人はいかにもそんな手の形をしているし、お医者さんも人に触れる柔らかい手だったりする。炎を見る人はそんな目をしているし、知識やセンスを使う人は目に見えないけど感覚や頭の中のどこかにストックされてる。それは仕事でも、ハマってる趣味でも、環境や役割によっても、様々な情報が経験と共に体のいたるところにファイリングされていく。
日常の暮らしの中で必要な衣食住においてのことも、職業じゃなくたって生活の中で費やした時間や労力に鍛えられたように進化している。

そんな心身を使ってほんの少しの「新しい何か」に出会うためのアイデアを実現してみてください。

世の中や、誰か、または自らのイメージする「あるべき姿」からほんの少し距離を置いて、
小さな冒険をしてみてください。

普段行かないようなところに行ったり、しないようなことをしてみたり。
日常使わない筋肉の感覚を取り戻すような、実は普段使わない自分に備わっている力を呼び覚ますような経験を時々取り入れてみてください。

新しい料理に挑戦でも、行ったことのない道を歩くでも、降りたことのない駅で降りて地図を見ずに歩くでも、普段書かない手紙を書くでも、初めての山に登るでもなんでもいいんです。

「そんなことしても無駄」とか、最近だと「不要不急」なんて言葉が出てきて、今は要らんやんとか、やらんでも死なへんし。とか、そうやって後回しにしているうちに、めんどくさいと思うようになって、やらなきゃならないことだけを、どうにかこなしているうちに、気力が枯れて行ってしまってるように見えます。

何がしたいかわからないんです。やりたいことなんてない。

老若男女問わずよく聞く言葉ですが、ちょっと騙されたと思って「不要不急」の楽しいことをやってみてください。そしてしばらく続けてみてほしいです。

実はそれ必要で早くやってほしいことです。

新しい発見、自分を楽しませるアイデアを試す時間を少しだけ持ってみる。
そうしていつもより透明な感動に出会えたら、魂と心と肉体とが近づいて少し心が自由になれる隙間ができて、息がしやすくなったり、よく眠れたりしたらいいなと思うのです。

そしてさらに、新しい視点や現実的なアイデアが生まれて、より未来を明るくするんじゃないかと思います。

新しい楽しい未来は、そんな隙間にいつの間にか芽生えるものだと思うのです。

謹賀新年

2023年が始まりました。

あけましておめでとうございます。

新しい年のカウントが始まって、前のブログの続きを思いながらも、
「律儀にちゃんとしないと」などと思いすぎて、なかなかいろんなことが進められずにいることから脱皮したいと思い、思いつくままここに宣言してしまおうと思いました。
お屠蘇の力も借りて。

何となく書かないとな、と思い始めてもう4年くらいになって、
書くことをこっそり影で始めて2年くらいになって、
今年で3年目に突入しようとしています。
その上で、思いつくままに書くことの凄さを感じるようになりました。
その時の思考と表現のタイムラグのないことは素晴らしいこと。
表現することに鮮度ってあるなって。

書くと知らない自分や、見えなかった自分の思いや、
その思考の癖や波みたいなものに出逢います。
知りませんでした。
書くことってすごい大事なことです。
そんなことに気づいたり、意識するようなことがないままに五十まで来てしまいました。

今年はもっと思いつくまま、いろんなことをやってみよう
もっと軽く、わがままになってみよう
自分で縛るあらゆることを手放していく勇気を。

私、かなり前向きで強い楽天的な人に見られがちですが、その実は真逆です。
変化に弱いびびりのインキャで引きこもっていることが好きです。笑

私の中の陰と陽。
どちらも私で、どちらかだけでは成立しない。

今の私は「グズグズなんてしてられないわ!やっちゃうわよ!」です。

より直感的な方へ
自分の運命を信じる方へ

福島に引っ越してきてしばらく経ってから、百日間お酒を絶って、聖天様のもとにに通ったことがあって、その時にいただいたメッセージがあります。
それは

「充ち満ちて生まれ
 歓び喜びて生きる
 我が名歓喜天なり」


今あることは、どんなものであれみちている。
だから喜んで生きるのだと
背中を押してくださってる。

そこに乗っかって、もっとお気楽に2023年始めてみようと思います。

本年もよろしくお願いします。

皆様にとっても笑顔の多い、心身健やかな良い年となりますように。

魂は自らのアイデアを実現することの面白さを知っている。 その2

この話をいろんな方々にしていく中で、私の言うところの、

「魂と肉体と心」と言うワードがしっくりこなくて、

「心と身体と頭」の方がしっくりくる人もいる。

確かに、魂って日常のなかで意識なんてしないかも。

私の日常が何だかちょっとズレてるところが多いにあるので、ぜひともしっくりくるものに置き換えていただきたい。

そしてどう置き換えたか教えてください。「なるほど!」ってなったり、 「そうきたか~!」ってなったりより細かく感じ取れるようになると思う。

言葉自体が、それぞれの認識の中のアイコンでしかなくて、よくよく感じ取ってみると確かに「魂って」とか「心って」不定形なものの感覚を掘り下げられるきっかけにもなる。

難しいですよね。形のあるものならともかく、

「幸せ」とか「恋」とか、それこそ「心」とか、形にならないものは必ずしもみんな同じように感じてるとは限らない。そこが面白くもあるけど。

でも、それぞれに形を求めてしまう。

もちろんそれぞれの幸せがあって、仕事だったり結婚だったり遊びだったり何だっていいし、自分が幸せだと感じることができればそれが最高。

だけどもまだ手にしてないと感じたり、今一瞬を生きてる私たちに、一生みたいなこれからの何十年の中で作る幸せみたいなことを考えると、何かしらとの比較が生まれてしまいがちで、それは何か(例えば両親とか)サンプルみたいなものや、昔からこうあるものみたいな固定された観念のなかに求めたりする。

〇〇歳なのに未婚、とか〇〇歳なのに就職が、とか収入が、とか「ありたい姿」よりも 求められる「あるべき姿」であろうとする。       

真面目であればあるほどに、それは深刻でそんな姿になれない自分がダメだと嘆いて  どんどん沈んでしまうように見える。

「あるべき姿」みたいな形を理想として頭で考え始めたときに、魂と心あるいは。心と頭のズレが始まってしまうことがある。

また続きます。

魂は自らのアイデアを実現することの面白さを知っている。 その1

最近のカウンセリングで魂と肉体と心のバランスの話をすることがとても多い。

カウンセリングはいつも「何かしらのキャンペーンでもあるのかしら?」
と思うくらいに、その時期にお会いする方々と同じようなテーマで話すことがある。

でも今回のキャンペーンはかなり大掛かりだと思うくらいに
長いしエネルギーも強く感じる。

魂と心の違いなんて日頃意識することってありますか?
私はあまりなかったです。笑

その違いとは?

魂が肉体に宿らないと生命の鼓動は拍動しない。
肉体をこの地球上で持つこと。
それは動物としてこの世で生きるということ。
そしてそれは動物としての本能である3大欲求に支配されるということ。

それは筋肉養成ギプスのように、時には魂を鍛えるための負荷になっている。
その負荷を負った状態での精神(スピリット)を心と呼んだりするのではないか?
今の私の中ではそう定義している。

肉体を維持するために、食事をして、眠ることが必要になる。
より良い遺伝子を残すために、綺麗な羽を持ったり、美しい声で鳴くように。
他の誰かとは違った特別なものを持ちたくなる。
それは知能や美貌、ステータスや権力なんかもそうなんだと思う。
そしてその心のあり方でその時の目の前で起こった誰かの言動や行動などの情報や、新たに得る知識などの受け取り方が変わる。
以前にもブログに書いたように、液体のように繊細で、そこにあらゆる生理現象や、時には嫉妬や見栄や、意地やなんかで揺らぐものだから、そりゃ「女心と秋の空」なんて言われてしまうのも無理はない。ただ女だけで括られるのは解せないと思う時もあるけど、それくらい女って生き物は可愛いのよということでよしとする。笑

誰かと比べたり、優れていたいと望むようになることそのものは、
成長していく上でとても大事な要素で、それがあるからこそあらゆる動物は進化していくし、種を残していくことができる。

ただ、ややこしいのはそれが何か具体的な数値化されたもので推し量ろうとすること。 それに囚われ過ぎてしまうことがあるということなのではないかと思う。

年齢だったり、年収だったり、偏差値だったり、もちろんそれは努力して勝ち得たりするような素晴らしいものでもある。
ただ、それに囚われ過ぎて、誰かを出し抜いたり、差し伸べる手を止めたり、誰かと比べては絶望してしまったりすることがある。
もちろん動物なんで競争もあるから、それも必要なことではあると思う。
そして自らを騙したりごまかしてることが大いにあり得る。
いつの間にか魂と心に大きなズレが生まれる。

そこで苦しんでいる人の話を聞くことが多いのです。

そしてその人たちはとても真面目で一生懸命であることが多いように思います。

次回に続きます。

日常の足元にある平和

コロナの自粛で特別静かな天神祭宵宮の今日、毎年恒例の大阪市内北エリアの戦災の御供養の歩き遍路に出かけた。

私が勝手にやってることで、何かに参加するとか、専門家の指導でなんてこともなく
完全に自己満足なのだけど、ある時期から特定の場所や時間帯でざわついて落ちつかないことがあって、自然とそうするようになった。

例年は6月に歩くようにしているが、今年は遅くなってしまった。

大阪は1944年の年末から空襲を受けている。
6月には週に一度くらいの勢いで襲撃されていて、たくさんの方が亡くなっている。

77年前の今日、7月24日は大正の木津川や伊丹にあった飛行場や大阪陸軍造兵廠(京橋〜森ノ宮の間にアジア最大規模の軍事工場があった)などの広範囲を襲撃されているが、天気が悪くて視界不良のため途中で攻撃をやめ桑名へと目的地を変えたそうだ。この時森ノ宮駅が被災していてその写真はWikipediaでも見ることができる。

そしてまさに今日、吹田の工事現場で見つかった不発弾処理が行われた。

77年前に投下されたもので、アメリカ製の1トン爆弾だったと聞いて驚いた。
180センチで直径60センチ。めちゃ大きいやん。
半径300メートルを避難地域として2000人が避難し、162本の電車が運休したとネットニュースにあった。

そんなものが空から降ってきた時代。

毎年毎年ヒリヒリと渇き、怖さと逃避と、焦りと諦めと、
なんとも言えない感情。
怒りと悲しみと絶望とが入り混じった煙のように風に溶けて匂うような季節が来ては、
戦争について、空襲について近く感じてなんとも言えない思いを巡らせながら歩く。

場所場所で聞こえる音や、肉眼を介さずに見える情景を感じる。

実際歩いているのは、いつもと同じ大阪の町。
忙しそうに目的地に向かい動く人々。
あらゆる手段で動いている。

日常の当たり前の景色が、一瞬で吹っ飛ばされる恐怖がかすめる。
そんな中を私も歩いていく。

河川敷野球少年たちの元気なかけ声や歓声。
マンションの一角、ビニールプールではしゃぐ子どもたちの声。
生活の音。食器を洗う音、電子レンジや洗濯機のアラーム、誰かを呼ぶ声。
どんな音も、特別幸せに感じる。

大きなジェット音。見上げると飛行機が飛んでいる。
かなり頻繁に、プロペラ機のバタバタ言う音も含めて、いつになく大きな音に聞こえる。

こんなにも飛行機は頭上を飛んでいたのかと気づかされる。
そしてほんの一瞬だけいつになく反射的に心臓がヒヤッとする。

そんな思いをすることもなく、気づかないまま当たり前の日常を生きる人たち。

平和なんだな。しみじみそう思う。

大きな爆音で夜空に打ち上がる花火を綺麗だと見上げることができるってすごいことなんだよ。

大阪市内南エリアや京橋エリアを歩くこともある。

今の当たり前の日常は、平和という大きなベースの上に成り立っている。


その眼差しは公園の銀杏のようでした。

回覧板でご近所のお婆ちゃんが亡くなったことを知る。
4月24日に旅立たれたそうだ。
戦時中に愛犬を軍事供出せよと言われ差し出した子どもの頃の話なんかを聞かせてくれて、いつもうちのワンコにオヤツをくれたりした。笑顔で「娘ちゃん大きいなった。別嬪さんになったねぇ。彼氏はできたんかいな?」とお茶目に笑う可愛い人だった。

最後にお会いしたのはいつだろうと思い返してみると、その時は今年の1月15日聖天さんのとんど焚きの時だった。
新年のご挨拶をして「お元気ですか?」とたずねるといつものような笑顔で話すことなく、「もうあきませんわ」とおっしゃって、力無く笑った。
私は多分「何いうてはりますのん」と返したように思う。
混み合っていたことと、次の予定が気になっていた私は、会釈をして別れてしまった。

あれからあまりお見かけしなかった。
コロナのこともあったりで出辛くなっているのかなくらいに思っていた。

少し離れたところで、私たちの暮らしに優しい眼差しを向けてくれていた人。

ありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

imagine 一滴の自分


今までいろんな方とお話しさせていただきながら、
私の中にいつの間にか定着したイメージがある。

それは、人の魂が液体だと想像することで繋がり広がったイメージ。
朝露のように一つの滴のように想像する。

人はとても影響を受けやすくて、少しの音の波動や振動でもフルフル震える。
たまに「私のオーラの色は何色ですか?」なんて聞かれたりするときにも
私なりに感じることとしてお応えさせていただくが、
「単色ではないので気分が変われば色も変わります。」とお応えしている。

シャボン玉の表面のオーロラのように変わりゆく色。
その色の筋は、いきなりの青や赤ではなく青味を帯びたところから、
少しずつ明確な青へと変わっていくように、人の魂の一滴にも同じことが言える。
そしてそれらの色の移り変わりは、時間の経過と共に流動的だ。
傾向として、青味が現れやすい人、とか、黄色味が強い人など
それぞれの色味のキャラクターがあるようには見えるが、そこで固定されることはない。

筆洗で筆を洗うように、大きな力で圧倒的な強い色の筆を透明な水に差し込めば、
そこにある水はその筆の色の影響を受ける。
透明であれば透明なりの、白であれば白なりの変色。
黒であれば影響を受けづらくはなるが、筆洗の中の一滴だとするならそれなりの色味へと変わっていく。黒は光とも色とも馴染まないので滅多にお目にかからないけども。

例えばその筆洗は、学校であったり、地域であったり、親族だったりする。
それが都道府県や、国や世界へと大きなバケツに変わっていく。
たくさんの一滴が集まった水の塊は、本来容器に入ってるわけではないので、
宇宙に浮かんだ地球という大きな一滴になっていく。

その表面にもやはりシャボン玉の表面の色の筋が見て取れて、
その色味が極端に強くなって起こることが戦争であったりするのではないかなと思う。

それぞれの一滴の中にもある色味。
それが集まり、影響し合い大きなエリアやエネルギーの強さが集まった時に起こること。

その集まりはやはり単体で突然沸き起こる物でもなく、
時間や意図的なエネルギーの偏りでより色濃く現れる。

この土地にご縁をいただいてから、お酒を絶って聖天さんに百日通うことを
何度かやっていたことがある。
ある百日のうちの九十八日目にいただいたビジョン。
それも水滴だった。
葉っぱの上に丸くキラキラと満ちてゆく朝露の滴。

「充ち満ちて生まれ 歓び喜びて生きる 我が名 歓喜天なり」

誰もが満ちて生まれ、純粋で透明なキラキラの滴で生まれている。
だからこそ喜んで生きるのだ。
生きる意味や意義がわからないと言われることがあるけども
喜んで生きてそれで充分なんだと思う。
何かのためとか誰かのためというのは、その後の話で充分。

遠い国の戦争のニュースを見るたび、私の中の色味を見つめ直している。

自分の中で大きく広がる色味の傾向で、その一滴の大まかな色味の傾向が生まれるのなら
葉の上の朝露から生まれ落ちたときの透明な一滴を、一日の中のどこかで意識的に思い出せるような時間を持ちたい。そうやって今日も祈っている。

*お知らせ*
二十歳までの未来の大人たちに、メールでですが無料でカウンセリングというか、文通的にお話しできたらいいなぁなんて思い描いています。

お父さんやお母さんからのご相談はちょっとまた違うので、この無料でのメールでのやりとりはお断りさせていただいています。

あと、ライン相談もお断りしています。自分でメールの文章を打ちながら自分と対話して欲しいのです。他の誰でもなく自分自身で自分の声をまずは聞くところからやってみる機会になればいいなぁ。

ご希望の方はメールください。
お待ちしてます。

気づきの重なりをシェアできたらいいなぁ

時々、「どうして村林さんはそんなに強くいられるのですか?」
とか、「村林さんみたいにちゃんと生きられません」
とか言われる時がある。

初めて言われたときは面食らって、言葉にならなかったのを覚えている。

当たり前にそんなことはなくて、どちらかと言うとあかんたれでヘタレです。
そしてド天然です。

人間ていろんな側面があって、みんな当たり前にいろんな顔があると思うんやけども、
もちろん私にもいろんな顔があって、夜叉のような顔もあります。笑

一度その辺りのことを思いつくままに書いてみようと思いました。
この文章だけで全部書ききれるとも思えないけども、
その都度書いていくのもいいかなと。

昔から良くも悪くも色んなことを感じとってしまう面倒な性質で、そのくせひとつに囚われると他が見えなくなって一つのことしかできなくなる。
妙に生真面目で、要領が悪くてねぇ〜。

小さい頃はとても泣き虫で母によく
「そんなことでどうするの?感受性が豊かなのもええけどほんまにどうやって生きていくの?」
ってよく言われてました。

そんな性質ゆえに人を傷つけてしまったり、迷惑をかけてしまうこともあったりして、
不甲斐無い自分が嫌になることもたくさんありました。

過去形なのは、昔に比べて、その感じ取ったことをそのままに捉えて、思考し言葉にし行動にするようなことがなくなったから。

そして昔は、(特に学生時代や会社にいた頃は、)そんな空気が読めない(会社では上司に「君は社会不適合者だよ」と言われたことさえある。笑)みんなと同じように器用にいろんなことをこなせない自分が嫌で、「ちゃんとする」ことに一生懸命だった。
頑張れば「ちゃんと」できると思っていたし、「ちゃんと」できないのは努力が足りないからだとも思っていたけれども、今思えばどれもこれも悲しいほどに外側からの価値基準に自分を落とし込もうと必死だったのだと思える。ヒリヒリするね。

学生の頃は特に一つの教室とか学校とか学生っていう箱に並んで、周りと見比べられたり、自分でも過不足を測って勝手に傷ついたりしていた頃もありました。
いじめられたこともたくさんあったしね〜。子どもって残酷な時もあるからなぁ。

今思うと若いなぁというのもあるし、時代の価値観が変わっていろんなことを打ち明けやすくなったり、理解してくれる人が増えたりしてずいぶん呼吸がしやすくなったようにも思います。
振り返ればいろんな呪いがかかってると思うほど、普通というふんわりした基準や、幸せなんてふんわりした妄想に囚われていた。
今となっては友達100人?良妻賢母?そんな言葉も捉え方によっては呪いでしかないように思います。呪縛という言葉があるみたいに、縛られて窮屈になって優しくおおらかになることが難しくなってしまう。

今も本質は何にも変わっていません。
ドがつくほどの天然も、良くも悪くもいろいろ感じ取ってしまうことが、仕事になってどんどん面白くなったりはしてますが、その副産物としての面倒くささも変わってないです。でも面白がれるようにはなってきたかも。

学校とか会社みたいな小さな組織を離れて、誰かと比べることなく自分のペースで生きてもいいのだと思えるようになれたこと、たくさんの方々に見守られながらお仕事をさせて頂いてきたことや、鬱になったり、大事な人と喧嘩して仲直りしたり、子どもを育てたりその最中で自分の周りにいないようなタイプの人たちと一緒に何かする機会を得たり、あかんたれなりにたくさんの人に迷惑をかけてかけられて、怒って怒られて、愛して愛されて、何もかもがお互い様でありがたいと思えるくらい、いい歳になったと思います。

いろんな方のお悩みを聞かせていただく仕事だけに、その悩める方の後ろの方々の愛情を持って寄り添う存在の言葉から私自身が学ぶこともたくさんあって、その積み重ねを繰り返すことで育ててもらったようなところも大いにあります。
そして、昔は人が怖かったけども、この仕事をするようになって、お一人お一人と丁寧にお話しさせていただく機会を得たことで、人が本来みんな優しい顔を持ってることを知りました。

そんなささやかな気づきの重なりを少しずつでもシェアできたらなぁ〜なんて思いました。

ここに書いていくのもいいかもなぁ〜。
でも続かないからなぁ〜。笑

まずは二十歳までの未来の大人たちに、メールでですが無料でカウンセリングというか、文通的にお話しできたらいいなぁなんて思い描いています。

ご希望の方はメールください。
お待ちしてます。

お月様とおしゃべり無事に終了しました。ありがとうございました。

初めてのお試し、リモートお話し会。
お月様とおしゃべり
無事に終了しました〜。
ありがとうございました。
今回はGooglemeetsでやりました。

次回、二月十八日木曜日の21時からです。
今月いっぱいは無料でやろうと思っていますので
気軽にご連絡ください。

日中の方がご都合が良いと言う方いらっしゃいますか?
もしいらっしゃればお昼もやってみたいと思います。

次は、これからどんな風に今の時代を楽しみたい?
みたいなことをおしゃべりできたらいいなぁ〜。

「お月様とおしゃべり」をリモートでやります。

リモートで「お月様とおしゃべり」をやります!

以前から、いろんな人と話せる場があればいいなと、お茶会のようなお話会のような「お月様とおしゃべり」の会を時々やってました。

月の満ち欠けや日常の様々なことで、なんとなく落ち着かないザワザワする、とかハラハラする心をお月様にお話しするように、お母さんにお話しするように、話せるような場を作れたらいいなぁと思っています。

今回のコロナでのおうち時間が長くなるとともに、リモートがとっても身近になりました。もっと暮らしに近いところで、それぞれの場所で話せたら楽しいよね。きっと。


パジャマでも、顔出ししてもしなくても、匿名でも本当のお名前でもなんでも大丈夫ですのでリモートだからこそ聞きたいことや話したいことを楽しくお話ししたいと思います。

まずは今週12日の金曜日夜9時からやります。

今後2時間1000円くらいでやろうと思っているのですが、今回はお試しで無料でやります。

参加方法、は個別コメントやコンタクトからお問い合わせください。

よろしくお願いいたします。