自らの悲しみや寂しさはいずれ怒りに変わり無関心へと変化する

自らの悲しみや寂しさは、いずれ怒りや恨みに変わり、やがて諦め果てて無関心へと変化する。
だからこそ悲しみは悲しみのうちに、寂しさは寂しさのうちに伝えることが、とても大切なことだと感じている。

まだお互いに生きているうちに、この世で時間や空間を共に過ごせるうちに、責めるでもなく、罵るでもなく、たくさんの愛情や感謝と一緒に伝えることが必要だと思う。
なぜなら、人は目の前の人に対して、たくさんの時間を共有すればするほど、愛情や感謝もたくさん感じていて、だからこそ悲しみや憎しみを感じる。
その間を振り子のように行きつ戻りつしながら揺れ動いている。

愛情や感謝は近ければ近いほど、照れてしまって、なかなか表現して伝えることが難しい。
怒りや恨みは感情のままに噴き出すこともあるが、愛情は感情のままに噴き出すことはなかなかない。
それは割に合わないように思うけども、そう言うことが多いように思う。

伝えられなかった哀しい思いは、いつか自らの中に大きな影を落として、アレルギーの様に触れることもできずに、そのままあらゆる不調を起こしてしまう。
感謝や愛情は柔らかい薄衣のように重なって暖かさを授かるが、その存在感は色褪せていき、2度とその薄衣を得られなくなった時に、俄に恋しく大切なものであったと気づく。
言葉や行動で相手に伝えることができたら、それは双方の記憶に鮮やかに残るかもしれない。

悲しみやつらさを伝えられなかったその人は、いつまでもわからないまま、気づかないまま、無明の闇へと置き去りにされてしまう。

無明とは、その人自身の成長点の欠落。いずれは恐れとなり、やはりアレルギーの様に触れられないものへと変わっていく。

お互いに苦しみや痛みを残したまま、愛すべき人を、辛い存在へと変えてしまう。
せっかく無条件で愛すべき存在であるはずの、互いに愛されたいはずの存在が、そうして去ってしまうことの怖さを、私は知っている。

まだお互いここにいるうちに、手を握り言葉以上の思いを伝えられるうちに、それが叶うことが、私は羨ましくもありもどかしい思いをしてます。

私はそうできなかった亡き母に対して、石化したような後悔の塊をいまでも持っている。