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二つ目のお話 腑に落ちる先 つづき その2 – cumulus

二つ目のお話 腑に落ちる先 つづき その2

友人さんと彼は二人で遊んでいたのではなく、もう一人フーさん
という人もいて、その3人で遊んでいた。

友人さんの訃報を聞いたのも、葬儀に参列したのも彼とフーさんの二人でだった。
昔からずっと時間を共にして来た誰かと、思いを分かち合えるというのは大きな救いだと思う。

3人はいつもなんかどこかお互いに悪態をついてじゃれあってるようなところがあって、
それは仲がいいからなおのことなのだろうと思う。でもきっと彼はそれを認めないだろう。
私にも似たようなところがあるので、想像がつく。
友人さんの独特な茶化し方もひっくるめて、やはり類は友を呼んでいる。

彼とフーさんが友人さんを忍んで飲むというので、私も同席させてもらった。
それまでにも、彼は私のことをフーさんに話していてくれて、私が友人さんの言うことを伝えていると
一番実感していただいたのが「めちゃエロない?」の話だった。

彼もフーさんも、懐かしい話の合間合間に「あいつほんましょーもない。しょーもない事して。アホやで」
やるせなさも、悲しみも、愛のこもった悪態になる。
人の感情はとても額面通りには行かない。複雑怪奇なものだ。
それくらい、やはり深くて広い。

フーさんが「なんでやねん!お前なんでそんなアホな事してん」と大きな声で叫ぶように言ったその時
友人さんが「しゃーないやんけ!」と叫ぶように応えた。
それは、尋ねた側も応えた側も「なぜそんな方法をとらねばなかったのか?」に対してのやりとりだったように思う。

友人さんは数年前から難病を患っていた。
それゆえに生きる上で大変なことがあったんだろうとは想像できる。
でもそれは私の想像でしかない。

またフーさんが「しゃーないちゃうやん。アホか。ほんまに。」と力なく言った。
そして友人さんが「しゃーないやんけ」と力なく応えた。
それは、もうこの世に戻ることができないと言う圧倒的な事実の前に交わされた言葉だった。

人は自分自身を騙すことができる唯一の動物なのではないか?と思う。
それくらいに人は自らの感情を誤魔化すことがある。

その「大丈夫」は本当に大丈夫ですか?
その「大好き」「大嫌い」は本当にそうですか?
その「もうどうでもいい」は本当にそうですか?
その「最悪や」はほんまにそうですか?

友人さんの「しゃーないやんけ」は、落とすべき腑がないまま、宙に浮いたままでいる。

友人さんには、抱きしめることも抱きしめられることも、文句を言うことも、手を貸すことも、微笑みさえも届けることができない。

「ごめん。もう無理や。どないしよう」もし、そう言えてたら。
「あーもうしんどい。一緒に手伝って欲しい」と、心から言えたなら、
きっと一緒に考えて悩んでくれる人は、いたと思う。

そして、そこに携われた人の誇りになるような経験の種を生めたのかもしれない。
誰かの「どうしようもない」は、もしかしたら、その人を大切に思う誰かの伸び代を広げるかもしれない。

「しゃーないやんけ」を繰り返し、やさぐれる友人さんを
慈しみながら、あちらの世界で安らかで、幸せであること願う遺された人たちの叫びは
友人さんのこれからを明るく照らしていくと思う。

友人さんのご冥福を、冥土の世界での幸福を祈る。

「自らこの世を去った人は、地獄に堕ちますか?」
と聞かれることがある。

私の持つ答えは「いいえ」だ。

ただ、遺された人の心にこびりついた悲しみという貸しは
いつか向こうの世界で友人さん自身が幸せになって、ちゃんと返してくださいね。

あなた自身の悲しみが、たくさんの人を悲しませるように、
あなた自身の幸せは、たくさんの人の幸せを生むのですから。

あなたの心の真の喜びが咲き誇りますように。