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「虹を見る」 – cumulus

「虹を見る」

子どもの頃に見た景色で鮮明に覚えていることがいくつかある。

それを元に書き始めたものがあって、いろいろ思いをめぐらせているのだけど、驚くほど今まで忘れていたことがあらわれて、ギューギューに詰め込んでいたクローゼットの扉を開けて雪崩れてくる物たちの様だ。

四十年以上も意識に上ることのなかった物たち。

だからと言って、なんとも思っていなかったのでもないみたいで、いちいちチクチクしたりハラハラしたり感情が騒がしくなる。 ホロリと涙がこぼれるものさえある。
そんなにかき乱されるほどのもの、よくもこんなに知らない顔をしてきたものだ。

随分と前に実家は無くなってしまったけれど、実家があった頃に部屋を片付けに帰った時のことを思い出す。過去の遺物。ものは捨ててしまえば済んだりするけれど、これは一体どうしたものだ? 今の(これからの)自分に必要なのか?
だとするなら「整理しなきゃ」と思うのだけど、それこそ卒業アルバムや、そんな時しか読まない文集の様なもの、が出てくるたびに作業が止まる。
どうせなら、全てメモに書き残してしまいたい衝動にかられる。そうなってしまうと、本来の目的をなさなくなってしまう。

上手に棚卸をしたい。

過去の記憶において、一人で思い、「語る」または「記す」ものはあくまでも私の主観でしかなくて、同じシーンに立ち会った兄弟や友人は、それぞれの主観で記憶にとどめていて、その輪郭は異なる。それぞれの角度から同じ立体を見て、その輪郭をなぞるものだから違って当然なのだけれど、そこで感情的になるとそこが楽しめなくなる。
丁寧にそれぞれの輪郭から、その立体の形を思い浮かべたい。

昨日はミモザの日で国際女性デーだった。
昨日のグーグルの検索のトップの動画にいろんな女性の言葉がデザインされていた。
そんな中でもオノ・ヨーコの言葉が
「一人で見る夢は夢でしかない。しかし誰かと共に見る夢は現実だ」
が、今の私にはとても響いて、過去も夢のように朧げでそれが真実かどうかを確かめるには誰かの存在を求めたくなる。

「おなじ虹を見る」
いつもこの感覚をそう呼んでいる。
誰かと共にいることが自分の全てを確かなものとしている様に思えてならない。

共に生きることは、酸素や水の様に必要なんだ。こんな時はそう思える。
近すぎてわからなくなるものなんだと、そう思う。