自らの悲しみや寂しさはいずれ怒りに変わり無関心へと変化する

自らの悲しみや寂しさは、いずれ怒りや恨みに変わり、やがて諦め果てて無関心へと変化する。
だからこそ悲しみは悲しみのうちに、寂しさは寂しさのうちに伝えることが、とても大切なことだと感じている。

まだお互いに生きているうちに、この世で時間や空間を共に過ごせるうちに、責めるでもなく、罵るでもなく、たくさんの愛情や感謝と一緒に伝えることが必要だと思う。
なぜなら、人は目の前の人に対して、たくさんの時間を共有すればするほど、愛情や感謝もたくさん感じていて、だからこそ悲しみや憎しみを感じる。
その間を振り子のように行きつ戻りつしながら揺れ動いている。

愛情や感謝は近ければ近いほど、照れてしまって、なかなか表現して伝えることが難しい。
怒りや恨みは感情のままに噴き出すこともあるが、愛情は感情のままに噴き出すことはなかなかない。
それは割に合わないように思うけども、そう言うことが多いように思う。

伝えられなかった哀しい思いは、いつか自らの中に大きな影を落として、アレルギーの様に触れることもできずに、そのままあらゆる不調を起こしてしまう。
感謝や愛情は柔らかい薄衣のように重なって暖かさを授かるが、その存在感は色褪せていき、2度とその薄衣を得られなくなった時に、俄に恋しく大切なものであったと気づく。
言葉や行動で相手に伝えることができたら、それは双方の記憶に鮮やかに残るかもしれない。

悲しみやつらさを伝えられなかったその人は、いつまでもわからないまま、気づかないまま、無明の闇へと置き去りにされてしまう。

無明とは、その人自身の成長点の欠落。いずれは恐れとなり、やはりアレルギーの様に触れられないものへと変わっていく。

お互いに苦しみや痛みを残したまま、愛すべき人を、辛い存在へと変えてしまう。
せっかく無条件で愛すべき存在であるはずの、互いに愛されたいはずの存在が、そうして去ってしまうことの怖さを、私は知っている。

まだお互いここにいるうちに、手を握り言葉以上の思いを伝えられるうちに、それが叶うことが、私は羨ましくもありもどかしい思いをしてます。

私はそうできなかった亡き母に対して、石化したような後悔の塊をいまでも持っている。

函館備忘録

ここ何年か半年に一度くらいのペースで函館に来ている。

カウンセリングにお越しくださる方もたくさんいらして、
その場や人とご縁をいただいて、とても楽しい貴重な時間でとてもありがたい。

そして、家族と離れ、広い空や大地や海に身を置いて、一人で生命を充電するように歩き回る。
その時間が年々とても大事なことだと感じるようになった。

豊かな広い大地は天と「とても近いなぁ」と初めて感じたのも北海道だった。
真っ直ぐ立って大地に足をつけること。
当たり前のようで、しっかり天地の間で立っていると、自然と呼吸が深くなるものだと
知ったのも北海道だった。

というより、初めて北海道に出張に来るようになったのは
もうすでに10年ほど前で、その頃の私は大阪から離れることがなかなかできなかった。

娘もまだ小さかったので、一人でどこかに行こうという気になれなかった。

娘が10歳になった頃、私がこれから生きるフィールドを「大阪」とか
「近畿」とか「関西」とかでなく、もっと広い「日本」でありたい。
となんとなく思って、何処かもっと離れたところで仕事をさせていただけたらいいな。
と漠然と思っていた時に、たまたまご縁をいただいたのが北海道だった。

なので北海道が特別「天地が近い」というわけでもない。
でも私にとってそういうことを教えてくれた場所が、たまたま北海道だった。

それ以後、娘も成長して、色んなところに足を運ぶ機会に恵まれる中で
もちろん近畿でも、九州や北陸でも、同じような体験をした。

現在地を離れて、「ここに立っていること」を意識できる場所に出会う幸せは
「地球の上に生きている」ことを教えてくれ、「ちゃんと繋がっている」臍の緒を確かめるような
安心感に触れることができる。

今日大森浜海岸を端から端までを歩いて、カモメやカラスにあって、
色んな人や犬や鳥の足跡を見て、その分け隔てのない姿に安堵した。

そんな居場所が物理的にではなく体験を通した感覚として、これを読んだ誰かの中にもあったらいいな。





母の27回忌によせて

嬉しいのです
あなたの友でいることが
あなたの五感を通して知るこの世界の景色と
私の五感を通して知るこの世界の景色とが
少しずつ染まり合うようなその語らいが

嬉しいのです
この世界の山と空と海と大地
風と水に触れ
太陽の光
月の光に照らされて
美しいとともに思えることが

嬉しいのです
一瞬の時間の重なりが永遠のように私に刻まれていることが

嬉しいのです
遥か遠く場所や時間を隔てても
私の中にあなたと過ごした時の全てが
美しいままで残されていることが

この目に
この耳に
この鼻に
この手に
さまざま感じるこの世界の風景
時折あなたを思い出しては
あなたをたどる様に

同じ夕陽を見て
同じ風を感じ
同じ山で深く呼吸をする

嬉しいのです
この時に生まれて
出会った大切な人達との命の灯火を照らしあい
自らを知るような
全ての奇跡の連なりがここから始まっていることが

嬉しいのです
あなたの娘でいることが
この世に生を受け
全て譲り送り出してくれた
お母さん
あなたが空に帰ってから
今日で26年
やっとそう思える様になりました
思えばいつもあなたはそばにいたんですね

もっとわがままでもええんやで

ねえお月様

私が子どもを生んで、いつ死ぬかもわからないような新しい命を守るのに夢中だった頃がありました。

昼夜問わず二、三時間おきに泣く赤子におむつか?ミルクか?暑いのか、寒いのか?
眠いのか?さみしいのか?あらゆる表現が全て泣くことで伝えられて、それをどう受け取るのが正解なのか、わからずに右往左往して、一緒に泣くような時もあったりで、今思うと「ちょっと病んでたんちゃうかな?」と思うくらい、視野の狭い世界でこの子の身が少しでも快適に健やかに保てることを願っていましたし、逆に損なわれることが恐怖でした。
もちろんやりがいも、楽しさも、面白さも、一生の中でぜひやって見たいことの一つだし、やりたくてやってることなんですけど。息が切れる時もあります。

これってきっと、たくさんのお母さんたちが体験してることだと思います。
自らの感情が深く他者(この場合は子どもですね)の感情とシンクロするようでもあり、
また真逆で、自らの感情と相反するところも出て来たりと、それは大きな振り子の端から端のような変化です。

子育てだけに限らず、仕事でも、恋愛でも、ありとあらゆる人間関係があって、暮らしを営む中で、人の心の振り子の振り幅は大きくも小さくも揺らいでいて、極端な白っぽいところから、極端に黒っぽいところへとその濃淡の中を行きつ戻りつしているように思います。強い光が差し込むところには、濃い影が生まれるように誰の感情にもその両方ある。

そんな大きな振り幅の後に、少しずつまた小さくなっていく時が訪れるのですが、
その瞬間自分がわからなくなる時があるのを感じて不安を抱く人がいます。
自分が何をやりたいのか?疲れてるのか疲れていないのにただ無気力なのか?

子どもは時間の経過とともに大きくなっていくし、何か大きな仕事や忙しい中の小さな緊張の連続はいつまでも続くわけでもないけれど、その時の怖さや一生懸命さがしばらくなごって手放せないような時もあります。

緊張や怖さが続いた時は、肩が凝るように気持ちも凝って固くなっているとイメージして、ゆっくりのんびりして、「血の巡り」や「気の巡り」を良くして「コリをほぐす」時間が必要な時です。

「それって、どうやったらほぐれるんですか?」「何をしたらいいですか?」
って、よく聞かれます。
何でもいいんだけども、心地いいなと思えるような簡単なこと。単純なこと。
それでいいんだけど、「例えばなんですか?」って質問されることも多いです。

その気持ちもとてもよくわかる。
自分の中のイマジネーションが小さく固まっちゃってる。
私もめっちゃあるあるなので、いろんな実験をしました。
山に行ったり、お参り行ったり、パンを焼いたり、手仕事したり・・・。
それぞれにすっきりするんだけども、お金や時間や労力やがかかって、毎日はできない。だんだんそれさえも億劫になる。
なので、犬の散歩に行くときに、何でもいいからちょっとでも心が動いたものを写真でインスタに記録するようになりました。私にとってインスタはリハビリ!笑
そうやって少しずつ自分を取り戻すように、四肢を大きく広げるように少しずつ「これヤダな」とか「キレイだな」とか「楽しいかも」と思えるようになって、感覚が言葉になるようになったら、それを書き出す。じゃないとすぐ忘れるので、1日にできたら3つカレンダーでも手帳でもスマホのメモでもなんでもいいから記録するんです。

私はそれを半年やりました。笑笑
インスタは毎日ではないですが、まだ続いてます。

忙しくしてないとダメなような、時間を無駄にしてはいけないような
なんかそんな縛りがどこかから染み込んで、自分の中にこびりついて、
知らず知らずしんどくなってる人がいたら「もっとわがままでもええんやで」と
自分自身に声をかけてほしいです。






なぜ月に話すのか?

ねえお月さま。

忙しいと見落とすもの。
聞こえなくなるもの。
知らないふりをしたくなるものがたくさんあります。

その中でも一番「厄介だな」と感じるものの中に
自分の心、思い、感情があります。
大体は誰かを思って、とかそんなことを言ってられないような状況
(目的達成のために自らの感情が邪魔になるような時)だったり、
夢中になって意識を向けてる方向に一生懸命で気づかなかったり、
いろんなケースがあるのだけれど、私も知らず知らずやらかしてます。
後でモヤモヤして来たり、知らない間に疲れや澱みが溜まってきたりして、
ふと気づくとやる気が全く起きなかったり、誰にも会いたくなくなったり、
ひどい時は眠れなかたり、ご飯が美味しく食べられなくなったり、
どこかに痛みを生じてしまうことさえあります。

聞こえない声、気付けない思い、そんなことはあちこちにあって
それを大事にしたい。
優しくしたい。
ちゃんと感じ取ってあげたい。
鼓膜を響かせて伝わることよりも、その世界の方が広いように思いませんか?

それが私の中のスピリチュアルです。

しんどくなったり、嫌なことが続いたり、何か不都合なことが続いて
「何かに祟られているのでは?祓ってください」
みたいな世界線。それがスピリチュアルだとするなら、もっとその手前のことから
紐解いてそれぞれの中のスピリチュアルな世界に気づいて、知ってほしいのです。

私が私を大事にして、あなたがあなたを大事にして、みんながみんなを大事にする。

そこから生まれる言葉を、声帯を震わせて誰かの鼓膜に届けて
自分の鼓膜を震わせて言葉として受け取ることができる。

想像してください。
感じてください。

思うように震えて音を発する声帯を
柔らかいその胸の奥から生まれたしゅんかんのまま
音にして発した時の、いつまでも心地よい言の葉を。
受け取った鼓膜も同じく心地よい振動であることを。

嬉しい時は嬉しいと。
悲しい時は悲しいと。

柔らかい胸の奥生まれたときはその感じ。

何かのせいになった時、素の感情から理由を探した時
その響きはざらついてしまうように思います。

でも難しいのよね。

だから私はイメージして、木に話すように、月に話すように、花に話すように
意地も見栄も理屈も通用しない、地球上の命として等しい自分の姿を刷り込んでます。

太陽は目が合わせられない。笑





誰もが持っているもの

ねえお月さま。

丁寧に作られたものが私は大好きです。
それは祖父が宮大工であったことや祖母が和裁をしていたこと、
母が日常のあらゆるものを丁寧に手作りしてくれていたことの影響は大きいと思います。
小学校で使うリコーダーのケースも母の手作りで、今もお念珠を入れて持ち歩いています。
お念珠よりも袋のほうがお守りのように強く感じています。

人の念はとても弱いので、手仕事の時間を重ねエネルギーを注いでいくことで、そこには大きな呪い(まじない)が加わって誰かを支えてくれます。
そして、その作ってる時間、注ぐ思いは、ほとんどが温かく優しいもの。
幸せな姿をイメージして時間を重ね注がれたものです。

ですが、その手づくりに限ったものだけでもないんです。
今まで聞いた中でも、就職祝いにお父さんにもらったお財布であったり、
お孫さんに初めてもらったプレゼントの百均の湯呑みを、何よりも大切にする
おばあちゃんのお話も聞きました。
新しい生活が始まる大きな節目に、自分で自分に贈るギフトもそうですよね。

その思いが、ものを選ぶ時間であったり、手渡す時のお互いの気持ち。
そしてそこから使う人の気持ち。
それらの重なりが、そのものに特別なエネルギーを宿すのです。

神社やお寺も、たくさんの人たちが時間を超えて何百年と祈り重なった時間がそこにあります。
そして、平和、人々の心の安穏、戦災や自然災害のご供養などなども含めて、生涯を捧げ祈り繋いできた神職さんや僧侶さんたちのお力もそこにはあります。

日常の中で、誰かの美味しい幸せや健康を祈り作られるご飯や、誰かの大事な節目の時間を衣服を整えることで支えることもできたりします。安らぎと休養をベッドメイキングで整えたり、一歩前に堂々と足をすすめるために靴を磨いたり日常の暮らしのことはその魔法をかけられる時間なんです。
それは今の自分が、未来の自分にできることでもあります。

誰かを大事にすること。
そして何よりも自分で自分を大事にすること。
そのためにできること、忙しい日常の中、ほんの少しだけ、ささやかな気持ちを注いでみることは、とてもスピリチュアルなんだと思います。

時間を重ねて、思いを重ねて、少しずつ未来を明るくしていくこと。
その力は誰もが持っているものだと思います。



グダグダのタネ

ねぇお月さま。

思えば、私が「なんで?」「どうして?」と考える、元々の癖は子どもの頃からありました。なんかきっと物事の捉え方がちょっとズレてて、「空気が読めない」とか
「君は社会不適合だ」とか、会社や学校にいる頃は誰かに言われることがありました。
そうなんですよね。何がどう違うのかがわからなかった。若い頃は、みんなと同じようにできてるつもりだったけど、そうではなかった。今でもあまり上手ではありませんが、私の中にあることを伝えるときに、どうすれば届くのか?の方法論を、雑貨屋さんから始まって、そこから引き継いだ18年のカウンセリングの中で得たように思います。

それは、占い師としてなのか、カウンセラーとしてなのか?
私の見えるまま、感じるままに話すことを、聞きにきてくださる方に翻訳しながら届けるようなその中で培ったもののような気がします。
今思えば雑貨屋さんの時も、その作品の中に宿り感じるものを、私の感じるままに求める人に手渡すときに話してたように思います。

そうなんです。丁寧に作られたものの中には、作者のエネルギーがちゃんと入ってる。
明るいものも、暗いものも、必ず何かしらの「念」みたいなもの。
「念」というと怖がる方もいるかもしれないですが、私の中ではそれは「思い」であり、「愛」であり「優しさ」であり、「強さ」であったりさまざま感じるのです。
それらをひっくるめて「念」というのではないかな〜と思います。

私にとっての「スピリチュアル」はそんな日常の中で、あちこちにあるもので、特別なことというか、特殊なことではないのです。
でも、とても大事にしたいもの。嘘や誤魔化しができないもの。
木が木であるように、風が風であるように、火が火であるように、水が水であるように。
あなたがあなたであるように、私が私であるように。
そこにあるものは全て、何かしらの「気」をはらんでいて、それは誰かの「思い」によって変容していくもの。そんな当たり前のものなのです。

いろんなおもいめぐらせまくり

一昨日の散歩道の月

6月のある日、ある方を介して、大阪公立大学の野村恭代教授から
このようなメッセージをいただいた。

「今スピリチュアルな方にヒアリングをさせてもらっています。日本はあまりにもスピリチュアルな世界を否定する傾向にあるので、それを打開すべく研究をしています。研究としてヒアリングをさせていただきたいです。」

スピリチュアル。私の苦手な言葉。笑

元々雑貨屋だった私が、カウンセリングを仕事としてやらせていただくようになって
今年で18年になります。
その中でも、聞けば聞くほど苦手意識を持ってしまう記号のような言葉。
「スピリチュアル」なぜ苦手かって?
この言葉って「とても大きくて曖昧」に感じるからです。
そして、この言葉を似たような感覚で共有できるような使い方をされてる人に
あまり出会うことがないからです。

言葉ってその何かしらにかけられた呪い(まじない)というか、
記号のようなところがあって
ぼんやりとした共通の認識の中で成立していて、お互いの会話の中にそのニュアンスを必要として、口から出てくるわけであって、例えば「赤」という色の一つを表す言葉が誰にも同じ色の赤であるかどうかもわからないけども、色に関しては決してその大きな誤解まではいかない。
たまにおばあちゃまから聞くような「なんやあんたどないしたん?赤いベベ着て」の際、私が着ていた「桃の花みたいなピンク」のシャツも赤の範疇であったりすることのおおらかさは好き♡

でも今よく耳にする「スピリチュアル」の言葉にあるその大らかさが湛えた豊かな世界のなかには、モヤっと感じたり、大いに誤解を孕むような危うさや、気持ち悪さを感じるものも私の中にはあったりして、小さく反発していたり、逆にうんうんと微笑ましく頷いていたりするようなこともあったりと、ざわつくワードの一つなのです。

私は、誰に説明しても、し尽くせないようなそんな引っ掛かりをたくさん持っていて、
きっと理解されないからと、こうやって文字で表すこともなんだか億劫で、考えすぎて、
かまえすぎて「やっぱり苦手」だったんですが、野村先生と2回に分けて話した6時間以上の時間は、すっとその重さを拭ってくれるような、良い機会になりました。

そんなめんどくさい、「おもいめぐらせまくり」のグダグダもひっくるめて
小学校でやった「先生あのね」みたいに、コロナ前までたまに気が向くとやっていた
「お月さまとおしゃべり」として、もっと軽く書いてみようと思っています。

誰かに長い時間、私の中のざわつく「何か」について話を聞いてもらうことなど今まではなくて、「お話し会」みたいな質問を受けて答えていくようなことはあったにせよ、野村先生とのその時間はとても特別で、今までカウンセリングとして丁寧に打ち続けてきた点を、一つづつ繋いで線になったのを見たようなそんな時間となりました。点を線に繋ぐと方向が見えてきました。

これから、また「やっぱり・・・」ってなるかもしれないし、途切れ途切れになるかもしれないけど、脈絡もなく、お月さまに話しかけるようにここにお喋りしていこうと思います。
スピリチュアルがなんで苦手なのか?
何かしらにかけられた呪いのような言葉とは?など、少しずつ次からここに記します。

よろしくお願いします。


魂は自らのアイデアを実現することの喜びを知っている。その3

魂が喜んだり、面白いと感じるときはどんな時だと思いますか?
またどんな時が喜んでるな!楽しんでるな!と実感しますか?

私はとってもわかりやすく言えば、真っ白い新雪に足を踏み入れる時や、冷たい空気を吸い込んで肺の中で温められていく感じや、初めて聴いた音楽やダンスや映画を観ていきなり鳥肌が立ったり、涙がこぼれたり、波打ち際で服を着たまま冷たい海水に足を浸けるかつけないかでドキドキしたり、大きな虹を見たり、山の中でたくさんの生命の息吹を感じたり、そこにさす陽光の遍く照らす温かさに触れる時、あー喜んでるなって感じます。
書ききれないくらいきっと探せばありそうだけど、今は思いつかないなぁ。
ぜひ、探してみてください。良かったらコメントで教えてください。
なかなかみんな書き込んでくれないけど 笑

もちろん仕事の上でも、カウンセリングにお越しいただいた方から幸せな報告をいただいたり、以前お会いした時よりも明るい表情で再会できた時もフワッと軽くなったような、ほっこり温まるようなそんな幸せを感じます。

そういえば私の母なんかは昔、仕事であらゆる数字がピタッと整った時にとてもスッキリする!なんて言ってたことがありました。
仕事の上でもそんな喜びはありますね〜。

小さい子どもが水溜りでバシャバシャするような、初めて傘をさして歩くようなそんな時もきっとそうだったんだなって思います。
いつしか慣れてしまって、当たり前になってしまってそんなことは思わなくなったりするのですが、その先に新しいまた何かを見つけて、理屈より少しだけ先にやってくる、ワクワクするような、心地良いような、ちょっと嬉しいようなそんな感覚。
先にドキドキや鳥肌のように身体が反応するような。

それって感動っていうもの中でも透明度の高いものなのではないかしら?と思っています。

「新しい何か」は、経験値が高くなって馴染みの日常の中では、忙しさも手伝ってなかなか出会いにくくなってしまうのです。

それは、日常で使う筋肉とか肉体的なことに似ているなと、地味にリハビリのように丁寧な指導をトレーナーさんにしていただきながら、体を動かすことを週一でやり始めて6年目の私は感じています。

使わない筋肉はいつしか忘れてしまって、少し無器用になって、感覚を取り戻すのに時間を要したり、すごくよく使う筋肉はどんどん進化して特別なものになったりするみたいに。

物を作る人はいかにもそんな手の形をしているし、お医者さんも人に触れる柔らかい手だったりする。炎を見る人はそんな目をしているし、知識やセンスを使う人は目に見えないけど感覚や頭の中のどこかにストックされてる。それは仕事でも、ハマってる趣味でも、環境や役割によっても、様々な情報が経験と共に体のいたるところにファイリングされていく。
日常の暮らしの中で必要な衣食住においてのことも、職業じゃなくたって生活の中で費やした時間や労力に鍛えられたように進化している。

そんな心身を使ってほんの少しの「新しい何か」に出会うためのアイデアを実現してみてください。

世の中や、誰か、または自らのイメージする「あるべき姿」からほんの少し距離を置いて、
小さな冒険をしてみてください。

普段行かないようなところに行ったり、しないようなことをしてみたり。
日常使わない筋肉の感覚を取り戻すような、実は普段使わない自分に備わっている力を呼び覚ますような経験を時々取り入れてみてください。

新しい料理に挑戦でも、行ったことのない道を歩くでも、降りたことのない駅で降りて地図を見ずに歩くでも、普段書かない手紙を書くでも、初めての山に登るでもなんでもいいんです。

「そんなことしても無駄」とか、最近だと「不要不急」なんて言葉が出てきて、今は要らんやんとか、やらんでも死なへんし。とか、そうやって後回しにしているうちに、めんどくさいと思うようになって、やらなきゃならないことだけを、どうにかこなしているうちに、気力が枯れて行ってしまってるように見えます。

何がしたいかわからないんです。やりたいことなんてない。

老若男女問わずよく聞く言葉ですが、ちょっと騙されたと思って「不要不急」の楽しいことをやってみてください。そしてしばらく続けてみてほしいです。

実はそれ必要で早くやってほしいことです。

新しい発見、自分を楽しませるアイデアを試す時間を少しだけ持ってみる。
そうしていつもより透明な感動に出会えたら、魂と心と肉体とが近づいて少し心が自由になれる隙間ができて、息がしやすくなったり、よく眠れたりしたらいいなと思うのです。

そしてさらに、新しい視点や現実的なアイデアが生まれて、より未来を明るくするんじゃないかと思います。

新しい楽しい未来は、そんな隙間にいつの間にか芽生えるものだと思うのです。

謹賀新年

2023年が始まりました。

あけましておめでとうございます。

新しい年のカウントが始まって、前のブログの続きを思いながらも、
「律儀にちゃんとしないと」などと思いすぎて、なかなかいろんなことが進められずにいることから脱皮したいと思い、思いつくままここに宣言してしまおうと思いました。
お屠蘇の力も借りて。

何となく書かないとな、と思い始めてもう4年くらいになって、
書くことをこっそり影で始めて2年くらいになって、
今年で3年目に突入しようとしています。
その上で、思いつくままに書くことの凄さを感じるようになりました。
その時の思考と表現のタイムラグのないことは素晴らしいこと。
表現することに鮮度ってあるなって。

書くと知らない自分や、見えなかった自分の思いや、
その思考の癖や波みたいなものに出逢います。
知りませんでした。
書くことってすごい大事なことです。
そんなことに気づいたり、意識するようなことがないままに五十まで来てしまいました。

今年はもっと思いつくまま、いろんなことをやってみよう
もっと軽く、わがままになってみよう
自分で縛るあらゆることを手放していく勇気を。

私、かなり前向きで強い楽天的な人に見られがちですが、その実は真逆です。
変化に弱いびびりのインキャで引きこもっていることが好きです。笑

私の中の陰と陽。
どちらも私で、どちらかだけでは成立しない。

今の私は「グズグズなんてしてられないわ!やっちゃうわよ!」です。

より直感的な方へ
自分の運命を信じる方へ

福島に引っ越してきてしばらく経ってから、百日間お酒を絶って、聖天様のもとにに通ったことがあって、その時にいただいたメッセージがあります。
それは

「充ち満ちて生まれ
 歓び喜びて生きる
 我が名歓喜天なり」


今あることは、どんなものであれみちている。
だから喜んで生きるのだと
背中を押してくださってる。

そこに乗っかって、もっとお気楽に2023年始めてみようと思います。

本年もよろしくお願いします。

皆様にとっても笑顔の多い、心身健やかな良い年となりますように。